23 雲のゐる
「ちょっ、ま、まって! やすときっっ……!」
叫ぶまでいく一歩手前の声で言いつつ、律はあわてて海斗の胸を押しやった。
心臓はとんでもない音でがなりたてまくっている。
なんてことをする。こんな人の多い場所で、いったい何を──!
そう言いたかったが、口は律の言うことをきいてくれなかった。まるで金魚のように、ひたすら「ぱくぱく」をくり返すだけだ。
海斗は片手で目元を覆ってうなだれている。
「……申し訳ありませぬ」
「謝るぐらいなら、最初から致すなああッ!」
「一言もありませぬ」
明らかにしゅんとなった海斗を連れて、律は大通りへ戻った。
(なんだかなあ……)
今の海斗はなんとなく、耳を垂らしてすっかりへこんだ大型犬のようだった。大きななりをしてどこか可愛らしいところがあるのも、やっぱり若かりし頃の泰時そのものだ。
が、律は敢えてそんな海斗の様子に気づかぬふりをした。
「よ、洋食がいいかな。やっぱり和食?」
「おまかせいたします」
「そうか。……じゃあここ! ここに入ろう」
ろくに店構えやメニューの看板も見ないで、律はとある洋食屋に飛びこんだ。
◆
観光地のならいで、大通りに面した店はどこも比較的高めの値段設定だったが、料理は予想していたよりずっとおいしかった。「当たり」である。
空腹を黙らせ、波だった気持ちもどうにか落ち着いて、ふたりはようやくホテルに戻った。もちろん、戻る途中でまたパン屋に寄って、明日の朝食もぬかりなく調達してある。
部屋に入ったところで、海斗がまた昨夜と同じように訊ねてきた。
「本日の入浴は──」
「わ、私はやっぱり部屋のにするよ」
「左様ですか」
では自分はあちらへ、と言ってさっさと準備を済ませ、海斗は大浴場へ出ていった。
「はあ……」
ドアが閉じると、思わずすとんとベッドに座り込んでしまった。しばしぼうっとする。
由比ヶ浜での出来事が、今更のようにじわじわと反芻されてきて、比例するように首や頬が熱を持ちはじめる。
(いや……ちょっと待て。早まったか……?)
数百年越しでとうとう彼に告白されて、自分はすんなりと受け入れた形だ。たぶん、恐らく。
あれで自分たちは「恋人になった」。……と、そう思ってもいいのだろうか。
いいのだろう、たぶん。
そしてその夜、いまこの時に、こうして同じ部屋に寝泊まりすることも決定事項で──
(は、早まった。間違いなく! 早まったぞ!)
胸がばくんばくん音をたてはじめる一方で「何をいまさら」とツッコミを入れている自分もいる。
こんなこと、わかりきっていたではないか。これが嫌なら、ひとまず返事は保留にしてもよかったのだ。そうしなかった自分の罪だ。
(……いや、むりだ)
自分なんかにそんな上等な処世術が備わっていたなら、今までこんなに苦労していない。前世でも、今生でも。
「うわ、うわあ……うわああああっ!」
律はしばらくベッドに転がり、頭を抱え、ひとりでじたばたと暴れまくった。
それからむくりと起き上がると、慌てて準備をし、バスルームに飛び込んだ。
雲のゐる 吉野の岳に 降る雪の つもりつもりて 春にあひにけり
『金槐和歌集』447




