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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第二章
74/93

15 草ふかき

 

 律はしばらく、地面に両ひざをついたまま茫然とその小さな石塔たちを眺めていた。

 すぐ隣にはまた違う横穴があり、そちらは実朝の墓ということになっている。母の思いを知っていた人々が、実朝の墓をその隣へ据えてくれたものだろうと思われた。


 とはいえ実は、鎌倉時代と呼ばれた当時は、現代とはちがって遺灰や骨壺の上に墓をたてると決まったものでもなかった。「吾妻鏡」によれば、政子の遺体は勝長寿院(しょうちょうじゅいん)に、そして実朝の首のない体は高野山の金剛三昧院(こんごうざんまいいん)に、それぞれ葬られたと記録されている。

 むしろこうした五輪塔(ごりんとう)などの供養塔は、故人にとって思い入れのある場所、また(ゆかり)のある場所に建てられることが多かった。

 ともあれ、今、現代人がこの鎌倉でふたりの足跡を訪ねられる墓所といえば、まずこちらということになるのだろう。

 横穴は平たい石の壁となるよう削り整えられており、その表面はびっしりと緑の苔に覆われている。今にも朽ちてしまいそうなその風情は、この場所に過ぎてきた長い年月をいやでも見る者に想起させるものであった。


(母上……。その節はまことに……まことに)


 あれほど多大なる恩愛をいただいておきながら、長い年月、自分には想像もつかないほどの苦労を掛けてしまった。自分がああして突然の死を迎えたことで、どんなにかお心を痛められたことだろう。その後、鎌倉幕府を背負う女傑として戦いつづけたという歴史を見るにつけ、去来するのはただただ「申し訳ない」という思いだけだ。

 本来、子は親より先に逝くべきではない。そうやって親の心を悲しませるのは、この世でなにより避けねばならない親不孝だというのは、昔も今も変わらないことなのだ。それが、あれほど自分を愛してくださった方ならなおのこと。


(申し訳もございませぬ。不肖の息子が、あなた様にはまことに多大なるご苦労とご心痛をお与えしてしまい……もはや、詫びる言葉とてないほどです)

(ですが今、こうして私はこちらへ参じることができました。今はただの市井の青年、青柳律として、これこのとおり五体満足に、幸せに暮らしておりまする)

(どうぞどうぞ、お心を安らかに。どうか静かにお眠りくださりませ──)


 唇をかみ、じっと目を閉じて手を合わせて祈る間、海斗も同様に、少し後ろで膝をつき、手を合わせていたようだった。

 実朝の五輪塔については、律自身はやはり軽く会釈をしただけにとどめたが、海斗のほうはこちらにもしばらく丁寧に手を合わせてくれていた。


 墓地はひどく静かだった。

 現代風の墓石の姿さえ目に入らなければ、周囲の鬱蒼とした森の木々と、それらを時おり揺らす風、上空の空や雲は、かつての鎌倉の時代とも、なんら変わらぬ姿なのではないか。そんな錯覚すら覚えるほどに、ただただそこは時空を忘れて森閑としていた。


 やがて、この先の山道を目指してのぼってくる数名のハイキング客たちの、互いを呼びあう声がしはじめた。元気のいい年配者の声である。昔よりもずっと長寿が許されるようになったこの国で、お年寄りたちは妙に元気がいいのだ。それはいいことなのだろう。

 無意識のうちに彼らの目線を避けるようにして、ふたりは静かにそこを離れた。

 律は最後に一度だけ、横穴の墓所をふりかえった。


(今はさらばにござります、母上。機会がありますれば、また必ず参ります)


 さらさらと梢を鳴らす風が吹く。

 なんとなく、その森のどこかにあの気丈できっぱりとした明るい母の面影が映っているような気がした。古い記憶にある、夫や弟妹たちと共にころころと笑う声。それが聞こえたような気がしたのである。


 そこからは無言のまま、さくさくと土を踏んで山道をおりていった。墓地の中では少し迷いそうになったけれど、幸い海斗の案内ですんなりともとの山門へ戻ることができた。


「思っていた以上に早めに下りられましたね。これなら八幡宮にも間に合うでしょう」

「……うん、そうだな」

「明日、時間がありましたらまた参りましょう」

「えっ。いいのか」

「もちろんにございます」


(うっ……)


 ふっと微笑んだ海斗の瞳がひどく優しい。

 急に首から耳のあたりが熱くなって、律はあっというまに目をそらしてしまう。無意識に首に手をやるのは、たぶん赤らんだそこを彼に見せまいと思うからだ。そのままあらぬ(かた)を見つめながら、律はうん、とひとつうなずいた。


「ここからでしたら、八幡宮は歩いても二十分ほどのようです。急ぐ必要はありますまい。ゆっくりとまいりましょう」

「……あ、ああ。うん」


 まだ寒風が残る季節だというのに、コートの下は奇妙に熱をもっている。

 律は首元に指を入れて少し風を入れながら、必死になにげない風を装うしかなかった。




草ふかき (かすみ)の谷に ()ぐくもる 鶯のみや むかし恋ふらし

 『金槐和歌集』540


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