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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第一章
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5 雲隠れ


「ひいいいっ!」


 そのときはもう、声にもならない悲鳴を上げるほか、なにもできなかった。しりもちをつかなかった自分をほめてやりたいぐらいだ。みっともないこと、この上もない。

リュックを前に抱きしめるみたいにして壁にべたりと背中をつけた律に迫っているのは、もちろんあの清水だった。

 大講義室のある建物を出てすぐの植え込みのかげである。二限が終わって次は昼休みの時間帯。学生たちはみんな三々五々にあちらこちらへ散ったあとのタイミングで、ひとりでゆっくりと講義室を出たのが(あだ)になった。

 清水は息をはずませている。


「ずっと……探してたんだっ。あれから、どんなに探したかわかる?」


 そんなものわかるわけがない。大体、探すのはそっちの都合であって、こちらは別に探そうとも会いたいとも思っていなかったのだから。むしろ、会うのは怖かった。だから極力会いたくなかった。

 とかなんとか不満を覚えつつも、震えながら恐る恐る見上げてぎょっとなった。


(えっ?)


 清水は明らかに疲弊(ひへい)して見えた。なんとなく顔色が悪いし、あんなにさわやかだった目の下にくろぐろと(クマ)までできている。


「いたっ」

「あっ。ご、ごめん……」


 あまり強く肩を握りこんでいたことにようやく気付いたのか、清水の手は少しだけ緩んだ。それでも律を逃がすまいとしているのは明らかだ。「ここで会ったが百年目」。まさにそんな感じだった。


「でも、その。できればゆっくり話せる時間を作ってほしいんだ。ちょっと込み入った話になりそうで」

「え……?」

「今すぐがダメなら、せめて連絡先を教えてほしいんだけど……。だめかな」


 驚きの次にやってきたのはちょっとした恐怖だった。

いや、そんなことを急に言われても。

確かにあの日、ろくに話もしないで逃げた自分に非がないとはいわない。学部と苗字だけでは、学内で人ひとり探すのは容易なことではないだろうし、昨今はプライバシー保護の観点から、学生課だってそうやすやすと他人の学生の名前や所属を教えてくれるはずもない。

清水が苦労したであろうことは想像に難くなかった。

だが、なぜそうまでして自分を探そうとしたのだろう。

すぐ目の前からぎゅうっと力を込めて見つめられているのがつらくて、律はつい視線をそらした。


「……逃げない? いや、逃げないでください、お願いだから。だめ?」

「は、はい……」

「よかった。ありがとう……」


 本当はいやだった。先日みたいに尻をからげて逃げ出したいのはやまやまだった。しかしこんな必死な目で見つめられたら、こう返すほかないではないか。しかも相手は先輩なのだ。

 しかたなく、清水に案内されるまま、律は教養部のちょっと奥まった建物のほうへと連れていかれた。律がふだんとっている授業だけなら足を踏み入れることのない区画。裏手が広いテニスコートになっていて、学生の姿もちらほらとしか見えない。


「まずは腹ごしらえしようか。新入生は知らないかもだけど、こっち側にも小さい売店があってさ。昼食になりそうなものも売ってるから」

「そ、そうなんですか」


 そうは言ったものの、正直、なにも喉を通りそうになかった。心臓はずっとばくばくうるさいし、ちょっと気を抜くと足だって震えてくるのだ。律は今にもそこらでしゃがみこみたくなるのを必死にこらえた。

 食欲なんてどうでもいいのは清水自身も同じだったらしく、案内した売店でサンドイッチひとつとペットボトルのコーヒーを買っただけだった。律も似たようなものを選んで彼のあとについていく。


 あまり人のいない区画であるためか、木陰にある空いたベンチはすぐ見つかった。夏休みが終わったとはいっても、まだ暑気の残る時候だ。セミはもう鳴いていないが、梢から漏れてくる光の粒はまだ熱を持っている。

 ふたり並んでそこへ座っても、律はすぐには食べ物に手をつけなかった。ひたすら膝の上で指をもじもじさせてうつむいているだけだ。


「食べないの?」

「あ……いえ。今はあんまり、食べたくなくて」

「そっか。実は俺もだ」


 律は返事に困って、さらに顔を下に向けた。

 清水は清水で、「ふう」なんていいながら手の甲で汗をぬぐうようにしているだけで、なかなか本題に入ろうとしなかった。


「あのさ。ほんとに、ほんっと~~にバカなことを言ってるって思われると思うんだけど」

「……はい」

「あれから俺、ずっと変な夢ばかり見ていてね」

「夢? ですか」

「うん。正確にはきみに初めて会った日の、ちょっと前から。きみ、あのとき俺を呼んだでしょう。『やすとき』って」

「……は、はい」


 清水はそこで言葉を切ると、もう一度「はああああ」と盛大な溜息をもらして両手で顔を覆った。


「実は俺、その夢の中でずっとそう呼ばれてるんだよね。自分が『殿』とか『実朝さま』とか呼んでるひとから」

「…………」

「ほとんど毎晩のようにだよ。出てくるシーンは毎回ちょっとずつ違うんだけど、出てくる人はいつも同じだ。白い着物を着た若い将軍様。まわりのみんなは彼を『鎌倉殿』って呼んでて。……もうなんだか、頭がおかしくなりそうで」


 今度は律が絶句する番だった。


雲隠れ 鳴きてゆくなる 初雁(はつかり)の はつかに見てぞ 人は恋しき

                      『金槐和歌集』378


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