2 みづがきの
海斗は「意地でも治す」と言い切った自分の言葉に忠実だった。
その後もしっかりとリハビリを続け、年が変わるころにはほとんど松葉杖には頼らなくてもいいようになり、その後も「とにかくしっかり歩くように」という主治医の勧めに素直にしたがって、時間を見つけては近くの川の河川敷などを長時間歩いていたらしい。
律と会う約束をした日にも、本来であれば電車やバスを使うところ、少し遠い駅で降りて歩いてくるなどということも多かった。
その努力の賜物と、もちろん若さもあってのことか、彼の足はどんどんもとに戻っていった。
最初のころは「自分では懸命に歩いているつもりでも、周囲の人々の足の速さに追いつけないのが口惜しい限りです」と珍しくぼやいていたのだったが、そのあたりもほとんど一般の人と遜色なくなってきている。
クリスマスにはまだ松葉杖を使っていたが、年が明けて和歌愛好会のみんなや鷲尾たちと初詣にいくときにはもう、杖なしで歩けるようになっていた。
夜になってから、約束の場所だった神社の境内に現れた海斗を見て、律の胸はいっぱいになった。
思わず一番に駆け寄っていく律を、周囲の人たちは気を遣ってくれたのか、先にひとりで行かせてくれた。
「もう……松葉杖、いらないんですか」
「はい。ご心配をおかけしました。まだ歩くのはゆっくりですが、どうにか」
「よかったよかった。これでも律ちゃんも泣かずに済むわなあ!」
「鷲尾さんっ。な、なに言うんですか。泣いてませんよっ!」
「ふひゃひゃひゃ! その目じゃぜ~んぜん、説得力がねえべ~」
言って鷲尾が大笑いするものだから、律はひたすら真っ赤になってうつむくしかなかった。彼に指摘されるまでもなく、律の視界はだいぶ熱くぼやけてしまっていたからだ。
友森たち愛好会のみんなも、それぞれに温かく「おめでとう」と海斗に声をかけてくれている。大体はそれに続いて「よかったね律くん」というセリフがくっついてくるのが、恥ずかしくてしょうがなかった。穴があったら入りたいとはまさにこれだ。
そんなこんなだったが、見知らぬ人々で埋まった境内で、みんなと一緒に年明けのカウントダウンを経験し、初詣の長い列の後ろに並んだ。
数十分も並んでようやく自分たちの番が回ってくるまで、みんなは温かい飲み物を飲んだり手や口をすすいだりしつつ待った。
いよいよ自分の番がきて、二礼二拍手。昨年のお礼と今年もお守りいただけるようにとお願いし、最後に一礼。
現代の人々は初詣をするとたくさんの「お願い」があるのが普通のようだが、本来、神社には「昨年お守りくださったことへの御礼」と「本年もどうぞよろしく」の意味でお参りするものだった。
だから律も、実朝としての記憶が戻ってからは多大なお願いを並べるというようなことはしない。
基本的に、武士たちは「人事を尽くして天命を待つ」のが本来なのだ。
ましてや人の心は、その人のもの。
海斗の心が今後どのように動くのだとしても、それは海斗の自由である。
ましてやそれを神に頼んで自分に都合よく動かそうなど、とんでもない望みなのだ、本来は。
だというのに、例によって鷲尾にはしっかりと後で揶揄われた。
「律ちゃん、ちゃ~んとお願いしといたかい? 『海斗とうまくいくように』ってさあ」
もちろん小声で耳元にささやかれただけだ。が、律は一瞬で茹で上がった。
「なっ……なな、そんなことっ、お願いするわけないでしょうっ!」
「ええ~? せっかくの初詣だぜえ? みいんな勝手なお願いしまくるタイミングじゃねえの。いいじゃん、そのぐらいのささやかなお願いぐらいさあ」
言って鷲尾がまた大笑いしているうちに、海斗が戻ってきて変な顔をした。
「なんだ? またなにか言って律くんを困らせてるな? アキ」
「ええ? いや全然? 俺は単純に、律ちゃんの応援をしてるだけだって。な? 律ちゃん」
「本当にそうならいいんだがな。と言うかその『律ちゃん』はやめろと言ってるだろう」
「ええ~? もうこれで慣れちまったもーん」
「まったく……」
海斗はもうそういうことには慣れっこなのか、苦笑しただけで聞き流した。
「悔しかったら海斗もそう呼んだらいいじゃん。なあ? 律ちゃん」
「えっ? い、いや、俺はええと……」
いきなり話を振られてもどぎまぎするばかりだ。ちらっと海斗を見上げるが、彼はなんとなく憮然とした表情になったようだった。
「やかましい。困らせるなと言ってるだろう。行こう、律くん。愛好会のみんなはもうあっちに行っていますよ」
「あ、はい……」
手袋をした海斗の手がぎゅっと自分の手首をつかんで、社務所の方へひっぱっていく。
胸がまた急に高鳴って、周囲の寒さをすっかり忘れた。
彼の手が手首から手へ移動して、しっかりとつながれている。
うるさくはねまくる心臓の鼓動が、周囲の人みんなに聞こえてしまうのではないかと思った。
みづがきの 久しき世より ゆふすだき かけし心は 神ぞ知るらむ
『金槐和歌集』645




