4 淡路島
二限目の講義は「日本文学概論Ⅰ」というものだったが、律の耳にはほとんど何も入らなかった。理学部の自分がわざわざとる必要のない内容の講義ではあったけれど、講義スケジュールを立てるときになにか本能的なひっかかりを覚えたのか、ほとんど無意識にとっていた講義だった。
とはいえ概論は概論。古い時代から少しずつ現代にちかづきつつ、有名どころの文学作品を紹介していくスタイルの講義だ。大講義室の学生たちは基本的に眠たそうな顔をしているのが大半だった。
それでも律は、いつもどこか心がわくわくするようにして初老の先生の声に耳を傾けていることが多かったのだが。
今日ばかりは、とてもじゃないがじっくり講義に集中するのは無理だ。
どうしよう。なんだったんだ。あの人はなんなんだ。
……きっと変な人だと思われた。
どうしよう。どうしよう。
ずっとそんな混乱した思いだけがぐるぐると脳内を回っている。
(どうして俺、あの人を『泰時』だなんて──)
びっくりするぐらい、彼に似た瞳だと思ったのは本当だけれど。だからといって、いきなり数百年も昔の人の名で相手を呼んでしまうなんて。
慌てて逃げ出したせいで、必要だった資料だってなに一つ借りることもできなかった。一体なにをしに図書館に行ったんだ、自分は。
その後は結局、図書館にはいかずに四限まで講義を受けて帰ってしまった。また彼にばったり出会ってしまいそうで怖かったからだ。しかたなく帰り道、駅ビル内の書店に寄り、文庫版の「吾妻鏡」をみつけた。
ちらりとページをめくったら、止まらなくなった。……涙が。
北条時政。鎌倉幕府初代執権。……おじじさま。
北条政子、尼御台。……母上。
あの時、心をかけ、大事に思った人々の名がページの上につぎつぎに現れてくる。そのたびにページの面が熱くゆがみ、かすんで見えなくなった。気が付けば律はすすり泣いていた。
鎌倉幕府内の権力争いの嵐の中で、自分よりも先に非業の死を遂げた兄、第二代鎌倉殿、頼家。
その恨みを忘れず、あの鶴岡八幡宮で白刃をひらめかせて迫ってきた甥、公暁。
なにがいけなかったというのか。
なにが悪かった?
自分が知る限り、北条家の人々は決してそんなに悪い人々ではなかった。荒々しい坂東武者として、教養の面でも雅な京の貴族さまたがたのようなわけにはいかなかったとはいえ、もとは素朴でごく気さくな、こころよい人たちだったように思う。
それなのに、鎌倉はあのような血みどろの権力争いの舞台になってしまったのだ。
(……あ。いけない)
そばで仕事をしていた店員の奇妙なものを見る視線にふいに気づいて、律は慌てて本を手にレジへ向かった。うっかりしていたが、ずいぶん時間が経ってしまっている。窓の外はすっかり暗くなっていた。
レジにいたほかの客の視線を避けるようにうつむきながら、律はその本を買い、文字通り胸にかき抱くようにして電車に乗った。
(泰時……)
祖父、北条時政の子、北条義時。あの男が第二代執権となり、その子として後を継いだのがあの人、北条泰時。
数え十三歳にして兄、頼家のあとを継ぎ、第三代鎌倉殿となった自分だったが、その自分にいつも真摯に仕えてくれたのはだれよりも彼だった。
お互い、若くして妻を迎えてはいたけれど、自分の心はいつも常に彼の上にあったように思う。なぜならいつなんどきでも、その場に彼がいたならば、目は彼の一挙手一投足を追っていたから。
心を伝えようとしたことはあった。けっしてわかりやすい方法ではなかったけれど。
あのときの泰時が、自分の想いに気づいたのかどうかを自分は知らない。その後すぐ、あの事件が起こってしまったからでもあるが。
その夜は、ほとんど寝食を忘れて「吾妻鏡」を読みふけった。
◆
驚くべきことが起こったのは、それから数日後のことだった。
「やっと見つけた。きみ、青柳くん!」
息をきらした清水が、学内の中庭のひとつで、いきなり律の肩をつかんだのだ。
淡路島 通ふ千鳥の しばしばも 羽掻く間なく 恋ひやわたらむ
『金槐和歌集』391




