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閑話 1

 

「さすが若い人は治りが早いね。そろそろ松葉杖は一本もちでもいいんじゃないかな」


 退院後の定期通院で主治医がそう言ったのは、事故からおおよそ二か月後のことだった。

 ハロウィンはとうに過ぎ去り、街には早めのクリスマスソングが流れている。天気予報では冬型の気圧配置にしばしば言及されるようになっていた。


 講義の合い間をぬって通院する頻度も次第にさがってきていたが、個人的なリハビリには逆に力を入れねばならないことがだんだんわかってきた。少しの間体重をかけないようにしていただけで、人間の体というのは驚くほど筋力が落ちるものなのだ。それを身をもって思い知らされたのがこの数か月だった。


 その間、実朝さまの記憶を宿した後輩、青柳律はずっと甲斐がいしく海斗のそばにくっついて動き回ってくれていた。もちろん彼にも講義があるわけなので、「可能な限り」ということではあるが。


 前世でも母親である尼御台さまの政子さまに溺れるように愛されていた末っ子の実朝さまだったわけだが、いまの母「麻沙子さん」も、どうやら似たような感じであるらしい。

 海斗の家にやってきて「カレーを作る」と言い張った律の、手もとの危なっかしさといったらなかった。まだそのときは両松葉だったが、どんなに自分が代わろうと思ったか知れない。

 今にも、さきほどのニンジンのように律の指がどすんと断ち切られるかと、心底ひやひやしたものだ。当の律には叱られてしまったけれども。


 自室でレポート課題のための本のページを開いていながら、海斗の心はページの(おもて)を通り抜けて、ふらふらと他所事(よそごと)へとさまよい出てしまっている。

 あの方のことを今後どうすればいいのかと、あれからずっと思い迷っているのだ。


 こんなことは自分らしくない、とは思いつつも、どうにもうまく考えを割り切らせるには至らなかった。

 今の自分は北条泰時ではないし、あの方だって鎌倉殿なわけではない。

 だが前世の()()()()はこれ以上ないほど海斗という個人の感覚を縛って、ほとんどがんじがらめにせんばかりだった。


 あの方は前世でそうであったように、今生(こんじょう)の自分にも心を懸けてくださっている。そのことを知る前からも気になる存在だった青柳律という人が、あれ以降どんどん海斗の中で大きくなっていくのを感じていた。

 そうでなかったなら、いくらなんでも自分の命を危険に晒してまで彼を自動車事故から救ったかどうか。


「……殿(との)。いや、律くん──」


 ほかのどんな存在よりも大きくなってしまった()の人のふたつの名を呼びながら、自分という人間もふたつながらに裂けてしまうような心持ちになる。

 もう昔の自分たちではないのだから──と、かの人もよく言うけれど、それをただ「そうですね」と受け止められるほど、自分たちの過去は軽くはなかった。


 鎌倉殿であり、右大臣であり、歌人将軍とまで称されたかの人を、今はただの後輩「青柳律」として(ぐう)せ、と言われても、今の自分には自信がない。

 首を奪われて命を落とした若き将軍のお姿を、自分は今もまざまざと目裏(まなうら)に思い描くことができるのだ。


(しかし──)


 大切か、そうでないか。

 そばにいたいのか、そうでないのか。

 シンプルな二択を思い描けば、おのずと答えはいつも定まっている。


 ただ、自分にかの方を受け止めるような器があるのかと──

 ただただ、そのことに思い惑ってしまうのだ。


 海斗は本を閉じて脇へやると、本棚に立てかけた「春霞」の歌の札を見た。

 美しいお筆跡()だ。

 実朝さまはお筆跡のみならず、疱瘡に(かか)って()()()が残っておしまいになるまでは、御父上である頼朝さまのように雅で美しい(かんばせ)のお方だった。

 今のお顔はまちがいなく現代の若者そのもので、前世の面影などはまるでない。だが、文字だけは間違いなく、今でもかのお方のものに違いなかった。


「実朝さま──」


 そうであるというのに、「青柳律として見てくれ」と言われても、やはり無理があるように思われる。自分にはどうしたって、彼と実朝さまとを切り離しては考えられない。

 そう考えるときに胸を刺す痛みの存在には気づいているが、こればかりはどうしようもない気がしている。


 海斗は机のわきに置いたままにしておいた、なにも書かれていない歌札を取り上げて、しばらくじっと考えこんでいた。


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