55 うはのそらに
サークル棟を後にした帰り道。
律は海斗に誘われるまま、駅ビルの中のコーヒーショップに入っていた。
松葉杖の海斗の代わりに二人分のコーヒーを注文し、トレイを受けとって席につく。
予想通りというのか、ここに至るまでにはもちろんすったもんだがあった。要するに、海斗が異様に恐縮したのだ。
「とんでもない。左様なことをおさせするわけには」
「もうっ。このぐらいはさせてください。何度も言ってますが、今は俺、あなたの後輩なんですから」
怒ったふりをして律がそう言いくるめるまで、海斗は固辞するのをなかなかやめてくれなかった。
店内にいる若い女性たちの視線がちらちらと海斗の上に飛んでくるが、律はもうこんなのには慣れっこになりつつある。あまりうれしくはないけれど。
仕方がない。まちがいなく、今の海斗は今どきのアイドルや俳優なみの美形なのだから。これはもう仕方がないのだ。あきらめるのだ、律。
ともあれどうにか落ち着いてから、コーヒーをひと口飲みくだして海斗は言った。
「和歌愛好会、いかがでしたか」
「あ……うん。とてもいいなと思いました。友森さんもほかの方々もいい人たちのようで」
「そうでしたか。自分もそう思いました」
詰めていた息を吐くように、ふっと海斗の肩から力が抜けたように見えた。彼は彼なりに、律の反応を気にしてくれていたのだろうか。
「もしご参加されるのでしたら、ぜひ自分にも供をお許しいただきたく」
「え? 俺が入らなかったら、海斗さんは入らないということですか」
はい、と海斗はこともなげに言った。「当然でしょう」と言わんばかりの顔だ。
「ほかのサークルに入られるのでしたらそちらに入りますし、どちらにもお入りにならないのでしたら自分もそのように」
「いや、あの」
「いずれにしても、お傍におります。時間の許す限りですが。……もちろん、ご迷惑でしたらいつなりと消えますゆえ。おっしゃっていただければ──」
「そっ、そんなこと言ってません!」
声がつい大きくなりかかって、慌てて落とした。幸い周囲に聞き耳を立てている様子の人はいないようだ。
「……そんなこと、言いません。海斗さんの好きなようにしてください」
「ありがとう存じます」
言って海斗はにこりと笑った。
その笑みの意味がなんであるかは重々承知していたが、律はもう苦笑する以外にできることなど何もなかった。
◆
そのようなわけで。
ふたりはそのまま愛好会に入会届を提出し、翌週から時間の許すかぎりサークルに足を運ぶことになった。
愛好会であらためて自己紹介を求められて、律は困った挙げ句にこう言った。
「和歌は好きですが、あまり現代の和歌に触れていなくて……。どうも古めかしい歌ばかりになるかもしれませんが、どうぞお許しください」
「とんでもない。前にも言いましたよね。『心にのぼったことを、素直に』と。わが愛好会のモットーはそれですから、どうぞ遠慮なく好きなように詠んでください。歓迎しますよ、青柳くん」
友森のいつに変わらぬ穏やかな返事と、ほかの会員たちの温かで控えめな笑顔に救われた思いがした。
ちなみに海斗はと言えば、こんな自己紹介だった。
「律くん以上にもの慣れず、失笑されるようなものしか詠めないかとは思いますが、和歌には興味がありまして入会させていただきました。律くんともども、どうぞよろしくお願いいたします」
最初の挨拶からして、すでにどこか鎌倉武士の雰囲気が漂いまくっていて、律は正直「大丈夫なのか、これ……」とひやひやした。
会合に参加できない日にも、時間を見つけて今の自分なりの歌を詠んでみる。
愛好会だけのスマホのコミュニケーションツールを利用してチャットグループが作られていて、できた作品を日々そこにアップする人も多いようだが、律はまだそちらは敷居が高い気がしてなにもアップしていなかった。
最初は、勘を取り戻すために「万葉集」や「古今集」、「新古今和歌集」の歌を読み直して引き写してみたりもした。さらには自分の昔の歌も同様にやりかかったのだが、こちらは羞恥心の方が勝ってしまってあきらめた。
当時の歌にじっくりと身をゆだねてしまうと、自分の若い頃の心持ちがまざまざと思い出されてしまい、恥ずかしさと苦しさで耐えられなくなったのだ。心はついつい、かつての鎌倉に飛んで行ってしまう。鎌倉を思うとき、律の胸はかきむしられるような懐かしさと息苦しさとに満たされてしまうのだ。
心を澄ませるために、静かに墨を摺り、筆にふくませる。
心にふっと浮き上がってきた様々な情景や想いのイメージを膨らませ、いっぱいに膨らんだところで、今度はそぎ落とし、研ぎ澄ませていく。
秋衣 ギプスの君の足に添ひ──
細めの半紙にそう書きつけかかって、かっと体が熱くなった。
(なにやってるんだ……!)
こんなもの、誰に宛てた恋の歌だかみんなわかってしまうじゃないか。
バカなのか、自分は。
ぐしゃぐしゃと半紙を丸めてごみ箱に放り投げたら、深いため息が口をついて出た。
今の自分は、きっとなにを詠んでも恋の歌になってしまうことだろう。
こんな状態で愛好会に入るだなんて、どうかしていたのかもしれない。
歌なんて作るひとは、みんな感性が鋭いものだ。自分がそっと胸の中に隠しているひそやかな想いまで、言葉の端々からみんな読み取られてしまうかもしれないのに。
(は、早まった……かも?)
だが、すべては後の祭りだった。
うはのそらに 見し面影を 思ひ出でて 月になれにし 秋ぞ恋しき
『金槐和歌集』423




