53 いそのかみ
海斗が控えめにノックすると、中からすぐに「どうぞ」と返事があった。おだやかな青年の声だった。
扉を開くと、八畳ほどの小さなスペースに、すでに五名の男女が集まっていた。男性が二名に女性が三名だ。同じ大学の学生だというのに、不思議なほど海斗たちのテニスサークルとは顔ぶれが違う。
良く言えば落ちついていて控えめ。一見したところ、内向的で繊細な雰囲気の人が多いような気がする。……つまり、律にとっては奇妙に落ちつくというか、初対面にもかかわらずあまり緊張せずに済む感じというか、要はそんな印象だった。
部屋の中央には会議室などで使う折りたたみ式のテーブルが二つくっつけて並べられており、一番奥に長髪の青年、左右に二人ずつが座っている。
壁はスチール製の事務用棚が置かれていて、ハードカバーの歌集らしきもの──ざっと見たところ「万葉集」や「古今和歌集」の名前も見える──が並んでいた。ほかにも歳時記がいくつかと、段ボール箱や厚みのある不揃いのファイルが雑然と並んでいる。
「はじめまして。会長に連絡した二回生の清水です。こちらはお話ししていた、一回生の青柳律くんです」
海斗が頭を下げるのに合わせて、律も慌てて腰を折った。
最も上座にあたる場所に座っていた青年が席を立つと、こちらと同じように頭を下げてきた。
「はじめまして、清水くん、青柳くん。会長の友森です」
ほかの会員もそれぞれ立ち上がって自己紹介していく。「陽キャ」のグループではありえないほど、彼らはもの慣れない様子に見えた。あまりにもぼそぼそとしゃべるものだから名前すらよく聞き取れない青年。顔を赤くしてうつむいたまま話す女性。逆に、ひどく慌てた様子で椅子に膝をぶつけてしまい、「いたっ」と叫んだかと思ったら机の上のノートや筆記具を床に落としてしまう女性。
こんなことを言ったら失礼だと思うけれど、非常に初々しい感じを受けた。
「事故なんだってね。大変だったでしょう。ケガのほうはどうなの」
三回生だという友森は、前髪とそのほかの部分が首のあたりのほぼ同じ高さのところで揃えられている。「サラサラ」とまでは言えないが、まっすぐで黒ぐろとした髪だ。それに合わせたものだろうか、鷲尾とはちがって太い黒縁の眼鏡までしており、全体には重い印象をうける。
ちなみに、本来「和歌」という名称は明治期以前の歌を指すもので、それ以降に詠まれた歌については「短歌」と呼称するようになったらしい。だが、友森たちは敢えてそれを「現代和歌」というふうに呼んでいるのだそうだ。サークル名もその思いを表現したものであるらしい。
海斗が勧められるまま手前のパイプ椅子に座るのに倣って、律もそろそろとその隣に腰をおろした。彼が怪我の説明をしている間に、そっとその場の人たちや周囲の様子に目を走らせる。
そのうちに、話はこの愛好会の活動内容や会合の頻度、そして和歌のことへと移っていった。
「最近では若い人の間でも和歌のブームがまた来ていてね。ネット上でお互いの歌を発表しあう場もあちこちにできているんだけど」
基本的に、しゃべるのは友森の役目のようだった。
「かたくなに『紙と筆やペンで』って言う人もいるけど、うちではどちらで詠んでもいいことにしているよ」
「基本的に、歌の披露をするときは批判や中傷はなし。当たり前だけどね。『こっちの言葉のほうがいいかも?』ぐらいは言い合うようにしてるけど、作り手がその意見を取り入れる義務はないことになってる。だれにもそんな義務はない。これもまた、当たり前だけどね」
講義カリキュラムの関係で、全員が揃うのは難しいので、週ごとに集まる曜日を決めておいて、そのとき集まった人で互いの歌を披露しあったり、歌とは関係のない話をしながらお茶をしたり。そういう、ゆるい活動を基本としているのだそうだ。
(自由なんだなあ……。なんだかいいかも)
律は生まれてからこっち、スマホで歌を詠むなんて考えてみたこともなかった。
しかし、確かにせっかくこんな便利なツールが手の中にあるのだから、利用しない手はないのだ。
会員たちの過去の歌をまとめた小冊子を見せてもらうと、「サイダー」とか「スマホ」とか「サンダル」とか「コンコース」とか、昔の自分だったら考えもしなかったような単語が自由に歌の中で踊っているのが見て取れた。
これまた自由だ。そして、楽しい。
もちろん歌を詠むことには苦労や苦しみもつきまとうものだけれど、基本的には楽しくあることが一番だろう。自分もできることなら、そういう歌人でありたかった。
「あのう」
友森の話が少し一段落したらしいところで、ふと海斗が片手をあげた。
「少しお訊ねしてもいいですか。こちらのみなさんは、『金槐和歌集』についてはどのようにお考えでいらっしゃるでしょう」
「えっ」
思わぬ単語が耳に飛び込んできて、律はその場で飛び上がりそうになった。
いそのかみ ふるき都は 神さびて 祟るにしあれや 人も通はぬ
『金槐和歌集』594




