52 田子の浦の
「講義のあと、少し時間あるかな」
「えっ。……はい」
海斗の声は、ひっそりと落とした囁き声だった。しかも周囲の女子たちが食器を運んでいったりして、少しばかり席を外したタイミングである。そばで聞いているのは鷲尾だけだった。とはいえ彼は、例によってすっとぼけた「聞こえないふり」を貫いていたけれども。
海斗はにこりと笑うと「それじゃ、あとで会おう」とだけ言って席を立った。
◆
(いったいなんだろう。何事なんだ……?)
などと落ち着かない思いを抱えつつも午後の講義を受け終わり、律は海斗から指示されたとおり、大講義室のある棟の裏手で待っていた。やがて松葉杖の海斗が現れた。ひとりである。
「お待たせいたしました」
この男、周囲に人がいないときには普通に「臣下しゃべり」に戻ってしまうらしい。律がどんなに言っても、これだけは直らないようだ。というか、そもそも「直す気」がない。
律は半ばむっとしながら、海斗の掛けていたバックパックを奪い取った。
「と、との。もう自分で持てますので──」
「いいからっ! 持たせてくださいっ」
そんなことを言って、さっきの女の子たちにはあっさり持ってもらっていたじゃないか。ついそれを思い出して、さらに律はもやもやした。そうしてもやもやした自分に、今度はいらいらしてしまう。まったくどうしようもない。
「……申し訳ありません。ありがとう存じます」
最終的に、わりと素直に頭を下げると、海斗はそのまま律をキャンパスの東側、ずっと隅のほうにある、通称「サークル棟」のほうへと連れていった。
(こっち側に来るのは初めてだな……)
紅葉した木々の間にある建物はやや古めかしい作りで、おそらく昭和のものだろうと思われた。
外観は四角ばった、灰色の地味なコンクリートづくりだ。中に入ると、昔風の病院のようなリノリウムの床の狭い廊下が、ずうっと細ながく伸びていた。照明は薄暗い。ただでさえ狭い廊下のあちこちに、何に使うのかよくわからない箱だの棒だのが積み上げられていて余計に狭くなっている。なんだか迷路のようで、高校の文化祭を思い出した。
廊下をはさんで、薄クリーム色のどうということもない古びたスチールドアがずっと並んでいる。いずれも表面に、何かしらのプレートやらポスターやらが表示されている。いろいろなサークルや同好会の名前だ。中には「宇宙生物研究会」とか「犯罪心理研究会」とか、多少あやしい感じのするものもある。
律は次第に不安になりはじめた。
いったい海斗はどこへ行こうというのだろう。
「あの、海斗さん──」
言いかけたところで、海斗はこつりと松葉杖を止めた。
「こちらです」
「えっ」
ドアに貼られた小さなプレート。
そこには「現代和歌愛好会」の涼やかな筆文字が並んでいた。
田子の浦の 荒磯の玉藻 波のうへに 浮きてたゆたふ 恋もするかな
『金槐和歌集』509




