46 もの思はぬ
「少し、失礼いたします」と言って、海斗がぐっとソファに両腕をつき、腰を浮かせてこちらへいざり寄ってきた。とはいえ、ほんの少しだけれども。
「えっ」
律は驚いて少し身を引いてしまう。すると、海斗はさらにぐっと上体を寄せてきた。
「少々、話しづらいようで。申し訳ありません」
「い、いや……いいんだけど」
語尾がしおしおと小さくなる。
海斗の目がじっと自分を見ているのを感じながら、また体温が上がってくるのを覚えた。
「入院中、いろいろな想像をしてみたのです。自分の『あなたのそばにいたい』というのが、一体どんな意味を持つのかを」
「あ……。うん」
「で、さらに想像を膨らませたら……非常に不愉快になってしまいました」
「へ?」
ぎょっとなった律に、海斗は慌てて「いえいえ、そうではなく」と言い直して後頭部を少し掻いた。
「勝手な想像です。あなた様が、たとえば──たとえば、アキと付き合ったとしたら自分はどう思うか、などといったことを思い描いてみたのです」
「へっ? わ、鷲尾さんと? 別にっ、私は──」
鷲尾とは本当に純粋に、ただの先輩と後輩の間がらだ。それ以上でも以下でもない。
と、そう言いかけたのを海斗は苦笑してまた片手で遮った。
「わかっております。ですから、ただの想像です。今のまま自分がぼうっとしていて、ただ時間を浪費していたなら、もしかしたらそんな未来がやってくるのかもしれぬ、と」
「バカなことを。そんな未来は来ないよ」
半ばむっとしながら言ったら、はい、と言ってまた海斗が笑った。
「どうかお許しください。……その想像をしてみて、ようやくわかった気がしたのですから」
「って。なにがだ……?」
と、ひょいと海斗の片手がのびてきて、律の手の甲に重なった。
びくっと飛び上がってしまう。
「うひゃ!」
「正直、非常に不愉快でした。腹も立った。鷲尾はいいやつです。それは間違いないのに……どうしても承服できなかった。そんな資格もないというのに」
「…………」
「これまで、お恥ずかしながら女性が相手の場合でも、そんな気持ちになったことがなく。自分で自分のことがよくわかりませず、しばらく病室のベッドの上で考え込んでおりました」
「…………」
いや、まさか。
泰時が、いや、海斗が。
自分のことで、嫉妬してくれたというのだろうか……?
「鷲尾があなたと二人きりでどこかへ出かける、と言うのを聞いたら? 『付き合うことになったんだ』と報告されたら? ……想像するだに、ひたすらに不愉快でした。ひどい焦燥も感じました。しまいに『なぜ自分ではないんだ』などということまで考える始末」
「ええ……?」
信じられないことを聞かされている。いや、本当にこれは海斗が自分に言ってくれていることなのだろうか?
律はそろそろ自分の耳のほうを疑い始めた。
「僭越きわまりないことです。ですが事実だったのです、それが。どうしようもなく」
「やすとき……」
手の上にある海斗の手に、ぎゅっと力がこもった。
それと同時に、心の臓がきゅんと音をたて、痛いほどに縮み上がった。
「何百年もお待たせした上で申すことでもないのは百も承知でお訊ねします。……あの時の『春霞』」
「春霞……?」
「はい。あの三十一文字をもう一度、この自分に頂戴いたすわけには参りませぬでしょうか」
「……!」
耳の奥で、ごうっと何かが逆流した。
もの思はぬ 野辺の草木の 葉にだにも 秋のゆふべは 露ぞ置きける
『金槐和歌集』408




