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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第一章
43/93

41 うちたえて

 

「その前に。なにも食べてないんじゃないかと思って、これ。よかったら」


 話を始める前に、なぎさはどうということもない顔をしてコンビニの袋をテーブルに置いた。何種類かのパックの飲み物や、サンドイッチ、おにぎりなどが入っている。すべて、よく見かけるような普通の商品だ。わざわざあまり高価でないものを買ってきたのは、律に気を遣わせまいとしてのことだろうと思われた。

 律は素直にお礼を言って、パックのコーヒー牛乳をひとつ開けた。なぎさも自分のバッグから缶コーヒーを取り出すと、カシリと音をたてて蓋を開ける。


「あの。それで……海斗さんのことって、なんでしょう」

「うん。もっと早く話したかったんだけど……鷲尾も口止めされてたみたいだし、なかなか伝える機会がなくて。ごめんなさい」

「口止め? って、海斗さんからですか」

「当然そうよ」


 なぎさが話したのはこんな内容だった。

 あの噂が学内を駆け巡った事件から以降、海斗はなぎさから話を聞き、彼女が例の話をしてしまったという女子学生に会ったらしい。女子学生も「つい軽い気持ちで話してしまった」と平謝りだったようだが、海斗は「それは俺に謝られても困る」と言い、彼女がその噂をもらした相手について訊いたという。もちろん、「今後、同様の噂を流すことはしない」と約束もさせたという。

 その後、海斗はつぎの相手のところへ行った。その人からまた「だれに広めたか」を聞きだして、つぎはその人たちのところへ。そこからまた噂が広がった相手のところへ──。それを延々と繰り返していたというのだ。

 聞いているうちに、律は胸いっぱいになってしまい、飲み物すら飲めない気持ちになってきた。


「ま……まさか。そんなこと──」

「まあ、びっくりするわよね。あたしもそうだった」


 なぎさが少し悲しそうな眼をして苦笑した。


「『そこまでするのって、いったいなんなの?』って。大変なんてもんじゃないでしょう。中には大学の友達だけじゃなくて、家族に言ったり、SNSで面白半分に書いちゃった人もいたみたい。まあ、そっちでは名前は出してなかったらしいけど」

「…………」


 とたん、背筋がぞくりとした。空調はちゃんと効いているはずなのに、ひどく寒い。律はさらに毛布をしっかりと着こむように前をかきあわせた。


「ごめんなさいね。そうやって怖がらせると思って、海斗は黙ってたんだと思うんだけど……。でも、青柳くんがそのことを知らないのもどうなのかなって思って。あたしが知らせることじゃないとも思ったけど、鷲尾は『海斗が許さない以上は絶対に言わない』って決めちゃってるみたいだったから」

 なるほど、律に話そうと思うまでには、彼女もけっこう葛藤したということらしい。


(そうか……)


 あのとき、心配していたほど大事にならず、学内の噂がわりとすぐに鎮静化していったのは、偶然などではなかったのだ。裏で海斗が、噂を広めた人たちにきちんと話をして「これ以上噂を広げないでほしい」と頼んで回ってくれたからでもあったのだ。


(海斗さん……っ)


 なんてバカなんだ。自分は。

 そんなことも知らないで、「このごろあまり海斗さんに会えないなあ」なんて不満にすら思ったりしていて。バイトで忙しいのも事実だったのだろうに、海斗は律のためにそんなことまで買って出ていたのだ。


「ほかでもないあの海斗から頼まれて、頭を下げられたら『うん』って言わない子はいなかったと思うけど。それでも大変だったと思うわ。人数が人数だしね。……というか、そもそもの原因はあたしだから、あたしも頼み込んで協力してたの」

「そうなんですか?」

「ええ。まあ、最初は断られたけどね。あたしは食い下がった。最後はしょうがなく了承してくれてね。特に女の子たちとは、海斗じゃふたりきりになるのはまずいでしょ? それで、主に女の子には、あたしからも頼んで回ったの」

「そうだったんですか……」

「うん。あ、でも誤解しないでね?『青柳くんが()()だ』とは絶対に言ってないから。『青柳くんのセクシュアリティがどうであろうとも、そんな噂は広めるべきじゃない』って、海斗は一貫して言ってたから。あたしも他の子には、そういう風に言ってたの。大体の子は納得してくれてたわ」

「…………」

「正直、どうなるかはわからなかったけど。幸い、なんとか噂は落ち着いていったみたいで、ほっとしたわ……。そんなアホ大学じゃないからっていうのもあるんだろうけど、それにしたって、すごいことよね。たぶん、海斗の人徳のおかげかしらね」


 なぎさはやっぱり、どこか寂しそうな笑みを浮かべて午前の陽の光がさしこんでくる窓の方を見ていた。

 思わず「ありがとうございます」と言いそうになった瞬間、なぎさが振り向いてギロッと(にら)んだ。


「お礼とか言わないでね! 絶対よ」


 うっと言葉に詰まって、どぎまぎしてしまう。

 この人、本気でエスパーなのではないだろうか?


「あたしのは完全に贖罪に過ぎないんだから。やって当たり前のことをしただけよ。むしろ、言うなら海斗に言ってあげて。……ほんと、睡眠時間まで削ってがんばってたのは海斗なんだから」

「は……はい」


 胸にじんわりと広がるこの気持ちはなんだろう。

 感謝と、申し訳なさと。それから、たぶん──。


「あ。お見舞いの人かい?」


 そのとき、待合室に義之が入ってきた。年相応に疲れた様子だったが、どこかほっとしたようにも見える。


「検査結果に問題がなかったそうなので、一般病棟に移ることになったよ」

「えっ」

 律となぎさは、ほぼ同時に立ち上がった。

「普通はこんなに早く出られないらしいけど、どうやらICUがいっぱいらしくてね。午後からお見舞いも可能だそうだ。どうか、ふたりも会っていってやってください。海斗も会いたがっているので」


 そう言った義之の目は、「ふたりも」と言いながらはっきりと律だけを見つめていた。



うちたえて 思ふばかりは 言はねども 便(たより)につけて 尋ぬばかりぞ

 『金槐和歌集』627


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