40 とにかくに
深夜になってから、海斗は意識を取り戻したとのことだった。知らせに出てきてくれた義之の前で、律は膝から崩れ落ちるようにして、待合室の床にうずくまった。
本当に幸いなことに、海斗の脳は傷ついていなかったという。とはいえ、今後の観察は必要とのことだった。
「よ、よかった……」
思わず嗚咽が漏れる。看護師が持ってきてくれた毛布が肩からずり落ちた。
「うん。でもすまないね。家族以外は入れないことになっているそうで」
「いえ、そんな。当たり前ですから」
膝を抱えて目元を隠したまま、律はぶんぶん頭を左右にふった。声がひしゃげてしまうのをどうにか堪えるけれど、どうしても涙がにじんでしまう。
義之はずり落ちた毛布を取り上げて律を椅子に座らせ、毛布を掛けて、肩を軽くたたいてくれた。
「私はあいつのそばに戻るけど、君はここで大丈夫なのかい」
「はい。家には連絡したので……」
メッセージアプリと電話で連絡しておいたが、母の政子と妹の彩矢はかなり驚いた様子だった。母はまず律のケガのことを心配したが、事故のあらましを聞くと、今度は海斗や義之に対して非常に申し訳なく思ったようだった。そして「落ち着いたら、あらためてお見舞いと、ご挨拶にいかせてもらうわ」と心配そうな声で言った。
『あんたも、ちゃんと休むのよ。そんな気になれないのはわかるけど、食事もできるだけしなきゃダメよ』
「う、うん……ごめん」
母に対しても申し訳ない気持ちが湧きあがり、律はほとんどまともに返事もできないでしゃくりあげた。
◆
翌朝になって、驚くべき見舞い客がきた。少しだけうつらうつらとしただけで、ほとんど徹夜明けの状態だった律の脳は一瞬、現れた人が幻ではないかと疑ったが。
「おはよう、青柳くん」
「えっ……。さ、笹原さん?」
来るとしたら鷲尾だろうと思っていたのに、現れたのはなんと、笹原なぎさだったのだ。
いかにも「とるものもとりあえず」という感じで、全体にかなりラフな様相だった。いつもは隅々まで隙のない化粧をしている顔も、今はほとんどノーメイク状態に見える。どうやら彼女も、昨夜はほとんど眠れなかったようだった。
「そこで看護師さんから聞いたけど、海斗、目が覚めたんだって? よかったわ……」
「は、はい。あの……すみません。俺のせいで──」
「あたしに謝るのは変でしょう。もう付き合ってるわけでもないんだし」
冷ややかな声だった。言葉ではそう言いながら、その声音にも瞳にも律を責める色がまったくないとは言えない気がして律はきゅっと身が竦んだ。無意識にも毛布を前でかき寄せて小さくなる。
なぎさは律から事故の状況や海斗の容態をさらに細かく聞き出すと、ひとまず安堵した顔になり、少し離れた椅子に座った。
「むしろ、謝らなきゃいけなかったのはあたしじゃない。あんなバカなことしちゃって……。あなたにすごい迷惑かけて。ここであなたに謝られても困るわよ。今回のことだって、大元をたどればあたしのせいって言えるんじゃないの? ほんと、謝るのはあたしじゃないの……」
律はうなだれて黙り込んだ。こんなもの、「はい」とも「いいえ」ともいえる状況ではないのだ。
「あのとき海斗には『ちゃんと青柳くんに謝罪しろ』って言われて、あたしもそのつもりだったのに。本人に『もうしんどい、関わらないでくれ』って断られちゃったら、もうどうしたらいいって言うのよ」
「す、すみません……」
「もう! だから謝らないでってば! あなたは悪くないんだからっ」
なぎさは自分の髪をぐしゃぐしゃかき回して、なんともいえない顔になった。化粧っけのない顔は、そんな表情をするとほんの十代の、ちょっと生意気なだけの少女のものに見えるようだった。しっかりした人なのであまり思わなかったけれども、よく考えたらこの人だって、まだ二十歳そこそこの年齢なんだとふと思った。
と、なぎさはすっと立ち上がるといきなり姿勢を正し、こちらに深く頭を下げた。律はびっくりして飛び上がった。
「あのっ。さ、笹原さん……?」
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした。お酒に酔っていたことなんて言い訳にもならないと思ってます。軽々しく人のセクシュアリティに関することを他人に口外するなんて……。あとになって自分で自分が信じられなかったし、今でも許せないと思っています」
「笹原さん……!」
「最後まで言わせて」
ぎろりとなぎさに睨まれ、律は仕方なく、すとんと椅子にもどった。
「相手の子が、わりと軽い気持ちで友達に話しちゃって。それが原因で、話が思った以上に広まっちゃって……。気がついた時にはみんな知ってて。どうしようもなかった。青柳くんには本当に不愉快な思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい」
「…………」
どうしたらいいのかわからない。
確かにあの時はとても困ったし、傷ついた。もう大学に通えなくなるのではないかと思って、毎日針の筵に座っているような思いで、びくびくと登校していた。それを救ってくれたのは海斗であり、鷲尾だった。
この人を恨みに思わなかったと言ったら嘘になる。でも、海斗にふられて傷心のまま、深酒してつい口走ってしまっのだと聞いたら、とても他人事とは思えなかったのも事実だ。
律は困りはてて沈黙するしかなかった。
と、なぎさが顔をあげた。
「あの。誤解しないでね」
「え?」
「別に、謝ったからって許さなくていいから」
「えっ。あの」
「謝罪なんてものは、どうせ『やらかした側』が自分の気持ちを整理するためにすることに過ぎないのよ。全部自分の都合でする、言ってみれば『ズルイ』ことよ。だからって『謝らない』っていう選択はないと思うけどね」
「…………」
「でも、傷ついた人は、無理やり相手を許す必要なんてないの。一生恨みに思って『殺してやりたい』って思ってるのだって自由だと思うの。……青柳くんが、もしそう思うならそれでいいの。むしろごめんなさいね、勝手に謝罪なんかして」
「え、ええと……」
それはそれでどうなんだ、と思いつつ、律は目を白黒させているしかできない。ぽかんと口を開けたまま、茫然となぎさを見つめる。
「これでひとりだけいい気持ちになろうだなんて思ってないから。そのことだけはわかってほしかったの。あなたに」
「…………」
「それと。海斗のことで、あなたに話しておかなきゃならないことがあって」
「えっ?」
「そのこともあって今日は来たの。……聞いてくれる?」
律はもちろん、うなずくことしかできなかった。
とにかくに あなさだめなの 世の中や 喜ぶ者あれば 侘ぶる者あり
『金槐和歌集』620




