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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第一章
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39 われ幾そ

 

 海斗の父は何度も律をうながして、やっとのことで律を椅子に座らせた。自分も仕事用の鞄を置いて隣に座る。

 律の体はそれでもまだ、がたがた震えっぱなしだった。


「心配しないでください。君は悪くない」

「そんなはず、ないですっ……!」

「いいや、そうなんだ。大体のことは、先に警察から説明を受けた。海斗は君を守ろうとして車道に飛び出る形になったと。目撃者もたくさんいたようですし、警察も事件性はないものとして、事故として処理するそうです」

「……は、はい」


 聞けばあれから、周囲にいた通行人の何人かにも事情聴取があったらしい。車の運転手ももちろん聴取されたとのことだ。運転手の人にも非常に申し訳ないことをしてしまった。どうやらあの時点で車から見た信号は黄色に変わっていたらしいので、まったく悪くないとはならないらしいけれども。それにしたって災難だろう。

 結局、全部、自分がうっかりしていたせいなのだ。

 律の思いを察したように、海斗の父が静かに言った。


「……あまり、自分を責めないでください」

「でもっ……」

「それでは海斗も悲しみますから」

「…………」


 そう言われてしまったら一言(いちごん)もなくなってしまう。

 律はうつむいて、膝の上の自分の拳を見つめるしかなくなった。

 やがて海斗の父は、みずから「義之(よしゆき)といいます」と名乗った。


(よしゆき……?)


 前世での泰時の父親のことを思い出して、不思議な気持ちになる。

 彼の父親は「北条義時」といった。基本的には「相州(そうしゅう)」と呼ばれることの多かった人である。相州とはいわゆる相模(さがみ)の国、いまの神奈川県のことで、彼はそこを治める人でもあったからだ。

 鎌倉で第二代執権として、北条氏を押しも押されもせぬ地位に引き上げた、最大の功労者と言える人物だろう。……もちろん、政治的には大っぴらには言えないような後ろ暗いことを数多くやったうえでの話ではあるだろうが。


 自分が知っている限り、相州は不器用な面はありながらも一族と鎌倉を守るためならどんなことにでも手を染める、自分のことをさて置いても一族のために信念を貫くタイプの武人だったと思う。後年は特に、目の奥に暗く鋭い剣をいつも忍ばせたような、殺伐とした御仁に見えたものだ。

 だが彼も、青年時代はもっとあっけらかんとした、ただの明るい素朴な田舎侍(いなかざむらい)だったという。それは母である尼御台(あまみだい)、政子からもよく聞かされていた。政子は義時を子供のころから知る姉だからだ。

 母は言った。あの鎌倉での生き馬の目を抜くような日々の状況が、彼をあのような怪物にしてしまったのだ……と。


 律は無意識に、同じ文字使う名をもった海斗の父をしげしげと見つめてしまった。

 つい、「もしかして、あの相州の面影がこの人のどこかにありはしないか」と。

 だが、それは杞憂に終わった。義之はごく誠実そうで、温厚な人柄がにじみ出るような雰囲気を全身から醸し出していたからだ。ここにいるのは、日々の食い扶持のために会社で働き、ひとり息子を心配するふつうの父親にすぎなかった。

 たとえもしもこの人があの相州の生まれ変わりだったとしても、今生のサラリーマンとしての人生で、鎌倉でのような命がけの、波乱万丈な経験はありえなかったことだろう。


「海斗さんの……容体はどうなんでしょう」

「頭部を強く打ったようで、詳しく検査をしているところだそうです。意識はまだ戻っていませんが、幸い脳に大きな出血などは見られないそうですよ。頭部の傷自体もさほど心配することはないそうです。かなり出血はしていたようですが、頭部の出血は多くなるものだそうです。安心して」

「ほ、ほんとうに?」

「ええ。足も骨折しているようですが、とにかく今すぐ命にかかわるような状態ではないとのことですから」

「そ、そうなんですか? ほんとうに?」

「ええ。意識が戻って、詳しい検査結果に問題がなければ、ICUから出られるそうです。そうなれば、君も顔を見に入れますから」

「……ううっ」


 情けない泣き声が漏れそうになって、必死に口をおさえた。

 よかった。本当によかった。でも、それをこの人の前で言うわけにはいかないとも思った。

 と、そっと肩に手が置かれるのを感じた。


「ここにいるのはいいですが、君もご家族に連絡したほうがいいのでは? だいぶ遅くなっていますよ」

「あ……はい」

「ほかにも、海斗の友人で連絡がつく人がいるなら知らせてもらえないでしょうか。大学には私が入れますので。でも、あいつの友人関係はちっともわからなくて。そちらはお願いできませんか?」

「は、はい。そうですよね」


 そんなこと、今の今までちらとも意識にのぼらなかった。情けない話だ。

 律は恥じ入りつつ、慌ててスマホを取り出すと、義之に断って部屋の外に出た。

 まずは家族と、それに鷲尾には連絡を入れなければ。




われ(いく)そ 見し世のことを 思ひ()でつ 明くるほどなき (よる)寝覚(ねざめ)

 『金槐和歌集』595


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