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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第一章
39/93

37 現とも

 

 耳の中でどくん、どくんと大きく心臓の音がしている。

 律は自分に出せる全速力でもって、歩道を駆け抜けている。背中のバックパックがずっと左右にゆさゆさ揺れ続けている。


(言っちゃった、言ってしまった……!)


 思いがけず、ぽろっと本音が口からこぼれ出てしまった。

 とんでもないことだ。自分が彼に抱いている好意のことなんて、少しもわからせようとは思わなかったのに。いやもちろん、過去、自分が実朝だったときの気持ちはもう知られてしまっているわけなのだが。

 あまりの恥ずかしさでぼうっとなり、視野が異常なほどに狭まっている。周囲の景色なんて、ほとんど目に入っていなかった。それでもどうにか、買い物帰りらしい子どもづれの母親や年配のご婦人などをジグザグによけながら、律はめちゃくちゃに走り続けた。


 どのぐらい走ったかわからなかった。

 息があがる。日頃の運動不足が(たた)って、すでに太腿の筋肉にしびれるような感覚が走り始めた。でも、足は止めなかった。

 すでに、ここがどこだかわからない。

 とにかく海斗のマンションから離れることしか考えていなかったのだ。

 目の前に広めの横断歩道が迫ってくる。まったく見覚えのない道だ。車道に出ようとしたその瞬間、後ろから声がかかった。びっくりするほど近くから。


実朝(さねとも)さま! いけません!」

「えっ。うわっ」


 すさまじい力で後ろから羽交(はが)い絞めにされ、体を抱き留められたかと思ったら、いきなり後方へ投げ出された。バックパックのおかげで背中は無事だったが、かなりの衝撃で地面を転がされ、肘や膝に痛みが走る。


「いっつ……!」


 と同時に、鋭い急ブレーキとドン、という音がした。その後、なにかがどさりと地面に落ちた音も。

 そこから世界全部が、まるでスローモーションに変わったように思われた。乗用車に跳ね飛ばされた男の体が宙を舞って回転する。その体がアスファルトに叩きつけられるのを、律の瞳はぼうっと見ていた。


(な……)


 世界から音が消える。

 世界から色が消える。

 灰色のグラデーションだけになった夢のような世界の中で、律は茫然と、地面に横たわった人を見つめていた。


「や、……やす、とき……?」


 それは声にはならなかった。ただの喉を通って出ただけの息にすぎなかった。水分が完全に失われた喉が、ざりざりと不快な音をたてただけだ。


「や、す……」


 片手をそっとそちらに伸ばした。

 そのとたん、うわっと世界に音が戻った。

 集まった通行人たちがざわざわと話す声。


「えっ、事故?」

「きゃあっ……!」


 乗用車のドライバーが青い顔をして飛び降りてきて「大丈夫ですか!」と泰時に呼びかけている悲痛な声。ドライバーは中年の男だった。

 周囲の人たちが慌ててスマホを取り出している。中には野次馬根性まるだしで写真を撮ろうとしている学生もいたが、律の目には入っていなかった。


「救急車!」

「だれか、警察よんで、早く!」

「あなた、写真なんて取ってないで救急車よびなさいよ!」

「どこかにAEDはありませんか!」

「そこのコンビニ。私、いきます!」

「このままじゃ危ない。その人、すこし脇に寄せましょう。だれか手伝って!」


 周囲は完全に大騒ぎだ。歩道の端にへたりこんでいた律は、それをしばらくぼうっと見ていたが、ようやくハッとして、なんとか立ち上がろうとした。が、無理だった。そのまま再びぺたんと尻もちをついてしまう。足ががくがくして力が入らない。腰が抜けているのだ。


「や、やす……」


 (うめ)くように言いながら四つん這いになり、そろそろと彼に近づく。


「やす……とき。やすとき……?」


 やっとその肩に手が届いた。そっと揺すろうとしたら、そばにいた女性に止められた。


「あまり動かさない方がいいですよ。救急隊を待ちましょう」

「あ。……うう」


 うまくものが言えない。一気にバカにでもなってしまったようだ。

 泰時は目を閉じている。頭部から出血していて、額とこめかみのあたりが真っ赤になっている。その血が道路にじわじわと広がりはじめた。

 目の前が暗くなっていく。


「あ……あああ……」


 うそだ。そんな。

 泰時が、あの泰時が──


「うそ……だ。いやだっ……」


 律は両手で頭を抱えた。

 そんな。そんなことって。


「うあ……うああ、うわあああああ──っっ!」


 泰時が。

 私の大事な泰時が。

 こんな信じられない奇跡によって、ふたりとも死んでから何百年もたって。

 やっとやっと逢えた、なによりも大事なそなたが──


「落ち着いてください! しっかりして!」

「あなた、この方のご家族ですか? 友達? あなたにはケガはないですか」


 女性やほかの人たちが声をかけてくれているようだったが、何も耳に入らなかった。

 律はぴくりとも動かない泰時にとりすがり、あとはひたすら「やすとき」と叫んで泣き叫ぶだけだった。




(うつつ)とも 夢とも知らぬ 世にしあれば ありとてありと 頼むべき身か

 『金槐和歌集』610


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