32 雁がねは
鷲尾は面倒くさげに手招きをすると、近くにあった自販機で缶コーヒーを二本買い、一本を律によこして、少し離れた場所にあるベンチへと誘った。コーヒーはホットではなく冷たいものだった。秋とはいいながら、今年は妙に残暑が長くて、まだまだ汗ばむ気温が続いているのだ。
腰を前にずらして足を組み、背もたれに体をあずけた姿勢で座った鷲尾には緊張の「き」の字もない。その隣に、律は肩を縮め、かしこまって座った。
コーヒーをぐびりと一口だけ飲んで、鷲尾はやっぱり世間話をするほどの緊張感もなく、するすると言い始めた。
「俺って変かな? こーゆーの、あんま気にしねえっつうか、気にすんのアホらしいっつうか。基本、恋愛なんてそいつの勝手だし自由だし。人に迷惑かけてねえんだからいいじゃん別に。だれがだれを好きになろうがよー」
「い、いや。でも……」
「だってそうっしょ? 下らねえじゃん。むかーしから、日本じゃ特にそういう恋愛はふつーだったんでしょ? なんか、近年になってキリスト教が強くなってきてからおかしくなったってのは聞いてるけどさ」
「は……はあ」
確かにそうだ。あの鎌倉時代と呼ばれているころ、男性同士が愛し合っていたからといって大っぴらにだれかから揶揄されたり迫害されたりすることはなかった。女を必要とするのは子が欲しいからであって、恋愛そのものは男とする、という御仁もけっこうな数でいたように思う。
とはいえもちろん、基本的には男女でつがうのが一般的ではあったけれども。
「そらそうよなあ。キリスト教の神がソドムとゴモラを滅ぼしたのは、あの街が全部男同士の同性愛バンザイの街だったから、ってしっかり書いてあるんだもんなあ。そのくせ、今のキリスト教の聖職者が信者の子どもの少年に手ぇ出してたなんてニュースが世界を駆け巡るんだからどんな世界線よ、ってなるわ~マジで。わけわかんねーよな」
「……はあ」
律は蓋もあけないままの手の中の缶コーヒーを見つめた。鷲尾はこちらに視線すら向けない。その目はずっと、植え込みの木立ちのずっと上の方をながめている。
「ま、とにかくな。気にしなくていいよ、っつってんのよ。少なくとも俺に関してはな。『うわあ、俺のケツが危ねえ!』なんて茶化すバカとか、ガキかっつーのよ。いや実際ガキなんだろーよ。ほっとけばいいんだよ、そんなアホはよ」
「…………」
どうやら鷲尾は、律の恋愛対象が同性であることを確信しているようだ。少なくとも今、完全にそういう言い方をしている。
強く否定するのもまた違うような気がして、律は黙りこんだ。
「海斗がどっち……てか、どういう指向なのかはよくわかんねーけど。もし俺とおんなじなら、あんたしんどいわけでしょ、相当」
「……え」
「あいつに惚れてんでしょ? ちがうの」
「いや、あっ、あの──」
びっくりしてわたわたしてしまう。思わず周囲をキョロキョロと窺ってしまった。缶コーヒーを開けていなくてよかった。でなければきっと、今ごろジーンズの上に中身をぶちまけてしまっている。
「姫にも言われたみてえだけど、けっこうバレバレよ? あんた。気をつけねーと」
「え、ええええ……」
全身が熱くなる。もしや、海斗にも「バレバレ」だったのだろうか?
律のほうをちらっと見て、鷲尾はぶふっと吹きだした。
「いんや。あのヤローは気づいてねーんじゃね? そういうことにだけはめっちゃ鈍いとこあるから」
「そ……うですか」
自分でも、ほっとしたのかガッカリしたのかよくわからなかった。
泰時は海斗とはちがう。かつて実朝だった自分は彼に懸想していたけれど、今の自分はそのままなにも考えず、流れるように今の海斗のことも恋してしまっただけなのかもしれない。それでいいのかどうかはよくわからなかったが、心は勝手に動いてしまう。いいか悪いかじゃない。もう、勝手に動いてしまうのだからどうしようもない。
ただ、自分は海斗に「かつて泰時に懸想していた」とは告白したが、今の海斗にも同じ気持ちでいる、とは告げなかった。
そのあたりを海斗がどう解釈しているのか、そこはよくわからない。というか、わざわざ確かめるのが怖いのだ。
彼の心にあるのが、前世の後悔と忠誠心であるのは間違いないが、それはきっと恋心とは別のものだろう。……それがもどかしい。いっそのこと彼に詰め寄って「いまの私のことをどう思ってるんだ」と膝談判できればどんなにいいか。いや、そんな勇気があるはずもないけれど。
苦悩している律の横顔を盗み見たのか、鷲尾がちょっと苦笑した。
「大変だね~律くんも。……おっと」
午後の講義のための予鈴が鳴りはじめ、鷲尾は軽い身のこなしでひょいと立ち上がった。
「んじゃ俺、そろそろ行くわ。三限はサボれねえやつで。ごめんね~」
「あっ。す、すみません」
片手で拝むようにする鷲尾に、律も慌てて立ち上がって頭を下げた。
「わざわざありがとうございました」
「礼を言われるようなこたあなんもしてねーよ。とりあえず、海斗にゃもうちょっとガッツリ押したほうがいいと思うぜ~。でなきゃあのニッブニブ、なんもわかんねーままだと思うよ~」
「え、えっと……」
おたおたしている律を後目に、鷲尾は顔の横でひらひらと手を振って、足早に校舎に消えていった。
雁がねは 友まどはせり しがらきや 真木の杣山 霧立たるらし
『金槐和歌集』226




