26 隠れ沼の
いたたまれない。もう本当に。
一刻も早くここから逃げ出したい。
もう律の頭にあるのはそのことだけだった。
「もう……許してくれ。勘弁して。帰らせてくれっ」
「申し訳ありませぬ。……ただ、これだけは申し上げたく」
「なんだようっ」
もう律は半泣きである。顔を隠しているほか、なんにもできない。
「あのときのお歌。……自分は後日、心より後悔したのです」
「え?」
「なぜきちんと頂いておかなかったか、と。あの鶴岡八幡宮のあとは、特に」
声がいっそうつらそうなものになって、律はおずおずと顔から手をずらした。海斗の顔は厳しく固くひきしまり、血が出そうなほどに唇をかみしめていた。膝に置かれた拳がまた、きつく握りしめられている。
「あなた様が自分に残してくださったものは多くはなかった。……なぜあの時、ふたりきりでいたときに下さったものを……とりわけあなた様が大切にされていた歌を、しかも他ならぬあなた様の筆によるものを──しっかりと押し頂いておかなかったかと。後年もずっと……何十年も、心残りに思っておりました」
「そ、そうなのか」
目を上げた海斗と、ついに視線が合う。
なんとつらそうな、なんと無惨な顔だろう。悲しいような、悔しいような。生きる力をどこかに放り出してしまったような。なんともいえない暗い霧が海斗の顔を覆っている。
こんな顔をする海斗はたぶん二度目だ。いや、あの時よりもずっと暗い。どうしようもなく絶望的で、見ていられないほどの陰惨な雰囲気を放っている。
「あのような形で夭逝されたことは、あなた様にとってさぞやご無念だったと思います。ですが……遺された者の気持ちを、その後も何十年も生きてその死を思った者の気持ちを、あなた様はご存じではありますまい」
「そ……れは、そうだが」
「あなた様をお守りもできず、我が父の無道の行いを諫めることも叶わず……自分にとってあの前世は、まこと無念の連続にございました」
「そうだったのか……?」
「はい」
ふ、と笑った海斗の黒い前髪が、はらりとその目に落ちかかる。
当時、自分の死後、第三代執権となってからの彼の苦労のほど、後悔のほどがにじみ出るような顔だった。
悲惨な表情にもかかわらず、それは海斗の顔の上に昔の泰時の風貌を彷彿とさせるものだった。
(なんという……)
なんといういい男ぶりか。律はつい、その顔をうっとりと見つめた。
昔の泰時がそこにいる。Tシャツやパーカーやジーンズなど、現代の衣服を身につけているのはまちがいないのに、そこにかつての若武者だった泰時の面影を見る思いだった。
と、いきなり膝の上の手をぎゅっとつかまれて律はとびあがった。
「ひゃあっ!?」
「どこにも行かないでくださいませ」
「え、あ……あの、ちょっとっ……」
「お願いです。お約束くださいませ」
あわあわして、もう中腰になりかかっているというのに、さらに強く手を握られて震えてくる。
「あの時、公卿はあなた様の首を持って逃げた」
「あ、ああ……」
確か「吾妻鏡」にもそうあった。
「我々が……わたくしが、どんな思いであなた様の首を探しまわったか。あなたはお分かりではありますまい。首のないお体ばかりを抱いて、自分がどんなに情けない思いでいたことか」
手の力がどんどん強まる。その指の下ではきっと血の流れが止まっているだろう。
「前世では、あんな風に自分の前からお消えになったのです。もう二度とあなた様に、あんな風に目の前からいなくなっていただきたくない……!」
「う、うう……っ」
握られた手が熱い。
でもきっと、それは自分への「恋慕」などではない。彼はどこまでも、鎌倉殿だった自分への忠義によって動いている。そうに決まっている。
だったら変な期待をさせないでくれ。これ以上この男に変な期待をして、みじめな思いはしたくない。
「わ、わかった。わかったからっ……!」
律はたまらず叫んだ。
「逃げないからっ。は、放して」
「実朝さま」
「痛いからっ。放してくれっ……」
「……あ。も、申し訳もございませぬ」
それでようやく海斗の手はゆるんだ。
慌てて手をひきぬき、胸元で無意識にさすってしまう。いや、本当に痛かった。今だってじんじんするし、少し手がしびれてしまっているほどだ。もう少ししたら、きっと跡になるだろう。
でもそれは、決していやな意味での痛みではなかった。
隠れ沼の 下はふ葦の 水籠りに 我ぞもの思ふ ゆくへ知らねば
『金槐和歌集』395




