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金槐の君へ  作者: つづれ しういち
第一章
28/93

26 隠れ沼の

 

 いたたまれない。もう本当に。

 一刻も早くここから逃げ出したい。

 もう律の頭にあるのはそのことだけだった。


「もう……許してくれ。勘弁して。帰らせてくれっ」

「申し訳ありませぬ。……ただ、これだけは申し上げたく」

「なんだようっ」


 もう律は半泣きである。顔を隠しているほか、なんにもできない。


「あのときのお歌。……自分は後日、心より後悔したのです」

「え?」

「なぜきちんと頂いておかなかったか、と。あの鶴岡八幡宮のあとは、特に」


 声がいっそうつらそうなものになって、律はおずおずと顔から手をずらした。海斗の顔は厳しく固くひきしまり、血が出そうなほどに唇をかみしめていた。膝に置かれた拳がまた、きつく握りしめられている。


「あなた様が自分に残してくださったものは多くはなかった。……なぜあの時、ふたりきりでいたときに下さったものを……とりわけあなた様が大切にされていた歌を、しかも他ならぬあなた様の()によるものを──しっかりと押し頂いておかなかったかと。後年(こうねん)もずっと……何十年も、心残りに思っておりました」

「そ、そうなのか」


 目を上げた海斗と、ついに視線が合う。

 なんとつらそうな、なんと無惨な顔だろう。悲しいような、悔しいような。生きる力をどこかに放り出してしまったような。なんともいえない暗い霧が海斗の顔を覆っている。

 こんな顔をする海斗はたぶん二度目だ。いや、あの時よりもずっと暗い。どうしようもなく絶望的で、見ていられないほどの陰惨な雰囲気を放っている。


「あのような形で夭逝(ようせい)されたことは、あなた様にとってさぞやご無念だったと思います。ですが……遺された者の気持ちを、その後も何十年も生きてその死を思った者の気持ちを、あなた様はご存じではありますまい」

「そ……れは、そうだが」

「あなた様をお守りもできず、我が父の無道の行いを(いさ)めることも叶わず……自分にとってあの前世は、まこと無念の連続にございました」

「そうだったのか……?」

「はい」


 ふ、と笑った海斗の黒い前髪が、はらりとその目に落ちかかる。

 当時、自分の死後、第三代執権となってからの彼の苦労のほど、後悔のほどがにじみ出るような顔だった。

 悲惨な表情にもかかわらず、それは海斗の顔の上に昔の泰時の風貌を彷彿(ほうふつ)とさせるものだった。


(なんという……)


 なんといういい男ぶりか。律はつい、その顔をうっとりと見つめた。

 昔の泰時がそこにいる。Tシャツやパーカーやジーンズなど、現代の衣服を身につけているのはまちがいないのに、そこにかつての若武者だった泰時の面影を見る思いだった。

 と、いきなり膝の上の手をぎゅっとつかまれて律はとびあがった。


「ひゃあっ!?」

「どこにも行かないでくださいませ」

「え、あ……あの、ちょっとっ……」

「お願いです。お約束くださいませ」


 あわあわして、もう中腰になりかかっているというのに、さらに強く手を握られて震えてくる。


「あの時、公卿(くぎょう)はあなた様の首を持って逃げた」

「あ、ああ……」

 確か「吾妻鏡」にもそうあった。

「我々が……わたくしが、どんな思いであなた様の首を探しまわったか。あなたはお分かりではありますまい。首のないお体ばかりを抱いて、自分がどんなに情けない思いでいたことか」

 手の力がどんどん強まる。その指の下ではきっと血の流れが止まっているだろう。

「前世では、あんな風に自分の前からお消えになったのです。もう二度とあなた様に、あんな風に目の前からいなくなっていただきたくない……!」

「う、うう……っ」


 握られた手が熱い。

 でもきっと、それは自分への「恋慕」などではない。彼はどこまでも、鎌倉殿だった自分への忠義によって動いている。そうに決まっている。

 だったら変な期待をさせないでくれ。これ以上この男に変な期待をして、みじめな思いはしたくない。


「わ、わかった。わかったからっ……!」

 律はたまらず叫んだ。

「逃げないからっ。は、放して」

「実朝さま」

「痛いからっ。放してくれっ……」

「……あ。も、申し訳もございませぬ」


 それでようやく海斗の手はゆるんだ。

 慌てて手をひきぬき、胸元で無意識にさすってしまう。いや、本当に痛かった。今だってじんじんするし、少し手がしびれてしまっているほどだ。もう少ししたら、きっと跡になるだろう。

 でもそれは、決していやな意味での痛みではなかった。



 (かく)()の (した)はふ(あし)の 水籠(みごも)りに 我ぞもの思ふ ゆくへ知らねば

 『金槐和歌集』395


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