24 み熊野の
周囲の楽しそうな、だが少し調子はずれの歌声と、激しいリズムを刻むやかましい音楽ばかりが聞こえていた。
それだけこの部屋の重苦しい静けさが身に染みるようだった。
ソファに座った律はずっと両手で顔を隠したままうつむいていた。海斗はその前に片膝をついた武士としての姿勢を崩さず、ただじっと律を見つめているようだった。
御家人としてあるべき姿だ。話が終わってもいない状態ならば、主人が次の言葉を発するまで、勝手に身動きしたり、ましてや勝手に場を辞したりすべきではない。
(バカだ……。本当に)
もう自分たちはあの時代の自分たちではないというのに。どうしてそこまで、過去に囚われる必要がある?
だというのに、そう思う自分のこの心こそが、誰より過去の自分に囚われている。過去、この男に抱いていた感情をそのままにして、しっかりとがんじがらめになっているのだ。
……滑稽だ。
こんなにも平和な時代に生まれ変わってきてまで、どうしてこんなにも過去に振り回されなくてはならないのだろう。新たな若い体と人生を与えてもらえたのだから、その人生をしっかりと謳歌すればいいではないか。幸せになればいいではないか。
(なのに、どうして──)
必死で堪えていたのに、ついに唇から嗚咽が漏れでた。
海斗がびくっと気配を固くしたのがわかる。
「と、殿……?」
「ダメだ! 見ないで」
「はっ」
言われた通り、さっと目線を落としたらしい。相変わらず忠義の人そのものだ。
泰時はずっと、自分、鎌倉右大臣、征夷大将軍の実朝に対して実直な人だった。少々融通がきかなくて頓珍漢なところはあったけれど、自分の責務に対していつも真摯で、誠心誠意、周囲の仲間である御家人や、家臣たちにも誠実な人だった。
だからこそ、彼を信じ、愛する人は多かった。
自分のような方法で愛した人はいなかったかもしれないけれど。
「……だ」
「は?」
もう一度、ほんとうだ、と漏らした声はかすれきっていて、ほとんど聞き取れないほどだっただろう。それでも海斗は聞き取った。
「ほんとう、とおっしゃいますのは」
「わたし、が」
そこからはほとんど吐息のようなものだった。
──そなたに、懸想をしていたのは……だ。
「…………」
海斗が絶句して、ぴたりと固まったのが気配だけでわかった。
律は顔を覆ったままで言い募った。
「申し訳ない。本当に申し訳ないことをした。……ごめんなさい。生まれ変わってまで、そなたに……いや、あなたに迷惑をかけたくはなかったのに」
でも、それでも傍にいたかった。その顔を見ていたかった。声を聞いて、できれば仲良く話だってしたかった。
「この世に神がおられるならば、きっとそなたを『今生こそは幸せに』と願ってそうなさったことだろう。……そなたは幸せにならねば。そなたにはその資格があるのだから。あの頃、あんなにもつらく、苦しい人生を歩んだのだから」
「…………」
「そなたは幸せにならねばならない人だ。……わ、私などがその足を引っ張ってはいけなかった。出会ってはいけなかった。声をかけてはいけなかった……。本当に本当にごめんなさい」
まだ片手で顔を隠したまま、律はバックパックをひっつかんで立ち上がった。
「もう会わないようにします。これ以上あなたに迷惑は掛けません。本当にごめんなさい」
「お待ちを!」
「うわっ」
いきなり腕をものすごい力でつかまれて、そのままソファに引き戻されてしまった。ぽかんとして海斗を見上げる。中腰になった海斗がまた床へすっと片膝をつき直した。
「ご無礼ながら、ここでお逃げになるのは卑怯にございます」
「ひ、卑怯って──」
「愚かな自分にも、どうかわかるようにご説明いただきたい。……懸想を? なさっていたとおっしゃいましたか? ……この自分に?」
「…………」
ぐぐぐ、とまた喉が詰まった。
羞恥と悲しさと、わけのわからない怒りみたいなものが爆発的にこみあげてきて、声なんて出るわけがなかった。
み熊野の 浦の浜木綿 言はずとも 思ふ心の 数を知らなむ
『金槐和歌集』506




