21 夜を寒み
「それで……どうしようというんだ? 笹原さんを」
「それはあなたさまとは係わりのなきこと」
「係わりがないわけないだろうっ!」
しれっと横を向いた彼の顔を見ているうちに、だんだん腹が立ってきた。まったくこの男は! こういうところは昔とちっとも変わっていない。
思えば昔も、大事なことはあまり教えてもらえなかった。この男はなんでもかんでも、とりわけ大事なことほど胸に秘めて、勝手に水面下でものごとを進めてしまう。まあ彼の場合は悪意からではなく、鎌倉殿であるこちらに心配をかけまいとしてのことだろうけれど。そこは、なんでも黙って闇から闇へと真っ黒な策謀を巡らせていた彼の父とは大きく異なっていた。そのことは認めているけれど。
「……まさか、遠ざけようと思っているのか。笹原さんを」
「これ以上あなた様に害を成そうとするならば、それもやむを得まいかと」
「って。そんなのっ……」
なにをしれっと言っているんだ。ひそかに胸の奥がわくわくしかけて、必死に自制する。いや、わくわくなんてしていない。していないぞ、絶対に。
そもそも、だめだ。彼が彼女と別れたからといって、自分にとっていい方に向かうわけではない。そんな風に過度な期待を抱いていいことがあった試がないのだ。
大体、彼は男性を恋愛対象にする人ではないはずだ。前世のときもそうだった。彼は昔なじみだった女性と夫婦になってから、その女ひとりをずっと大事にしていた。今回だって、あの笹原なぎさと別れた後、今度はまた別の女性といい仲になるだけに違いないのだ。変な期待をしてはいけない。
彼の愛が自分の上に降りてくるだなんて、そんな甘い妄想をしてはいけないのだ。
それに、なんだかとても危険な気がする。相手はあの笹原なぎさだ。彼から別れを告げられて「はいそうですか」なんて引き下がるはずがない。むしろ、もしかしたら……というか十中八九、恨みの矛先はこちらに向くはず。
「お考えになっていることはわかります」と海斗が言った。こちらの考えを見透かしたような瞳をしている。その瞳は以前の、源泰時であったころと瓜二つに見えて一瞬どきりとした。
「左様なことはさせませぬ。自分からしっかりと釘を刺しておきまする」
「え。い、いや。あの……」
それはそれで、なぎさが哀れな気もする。
彼女だって海斗と付き合えるようになるまで、いろいろと頑張ったのに違いない。やり方に多少悪どいところはあったかもしれないが、それでも努力は努力だろう。それだけライバルが多かったことは予想に難くないのだから。
そうまでしてやっと手に入れた愛する男から別れを告げられ、「だれそれに恨みを抱いて妙な真似をしたら許さない」なんて言われたら。そのときの彼女の心の傷はいかばかりのものになるだろう。
「そ、それは……やめてあげてよ」
「何故にございますか」
律は答えられず、しばし黙った。
「あの女性の性格からして、振り向きざまにあなた様に害をなすことは想像に難くありませぬ。あなた様を傷つけることだけは絶対に許すわけには参りませぬ」
「……ありがとう。気持ちはうれしい。でも──」
「このお話はこれまでに。これは自分が選択すべきことですゆえ」
言って海斗は立ち上がると、床に落ちていた律のバックパックを拾い上げて少しはたくと律に渡してきた。
「あ。ありがとう……」
「それでは、この場はこれにて失礼を仕ります」
きりりと一礼して去っていく。
空き教室にひとり取り残されて、律はしばらく茫然としていた。
「……な、なんなんだよっ……!」
自分で無理やりひきずってきておいて!
あんな風に言いたいことだけ言って、今度はさっさと行ってしまうのか。
まったくもう、あの男は!
夜を寒み 鴨の羽交に 置く霜の たとひ消ぬとも 色に出でめやも
『金槐和歌集』387




