20 恋ひこひて
「ふうん。『ずるい』。何がどう狡いとおっしゃるのですか」
「そっ……そういう言いかた、もうやめるって、決めたっ……!」
「そうですか? でも、今のままでは納得がいかないのです。実朝さまが自分をお避けになる理由をお聞かせくださいませ。でなければ自分は」
「うっ、うるさいっ。うるさいうるさいっ」
抱えていたバックパックを落っことすのにも構わず、律は自分の両耳をふさいだ。
「実朝さ──」
「そう呼ぶなってば!」
「でしたらきちんとお教えくださりませ。自分はもっともっと、実朝さまと過去のお話をしとうございました。あなた様もそれをお喜びくださっていると思っていた。なのに何故、自分を遠ざけられますか。しかもこんなにも急に」
「…………」
唇を血がにじむほど噛みしめる。律は再びうつむいて、完全に「だんまり」になった。
その顔を、また上から海斗が見下ろしているのがわかった。空気がどんどん重たくなり、薄くなっていく。うまく息が吸えない。そして、勝手に眼前が熱く歪みはじめた。
「……申し訳もなきことです。お泣かせするつもりはございませんでした」
「っ……バカ! 泣いてなんかいないっ。バカ野郎!」
「はい。自分の愚かさは存じております」
「だからっ。そういう言い方、やめろっ……」
そこからまた、重苦しい沈黙が少しあった。
「……あの女性にございますか」
「え」
どきんとして、律はまたもや固まった。思わず目を上げたら、彼の瞳が今度は悲しみとともに怒りの混ざりこんだ不穏なものに変わっていた。律はつい、ぞくりと背筋が寒くなるのを覚えた。
「つねづね嫉妬深い女性だとは思っておりましたが、よもやあなた様にまで余計なことを吹き込むとは。まさか左様なことまでする者とは思いおりませず……大変ご無礼を仕りました」
海斗が、さっと床に片膝をついて頭を下げる。これは完全に「泰時」としての行動だった。直衣や狩衣姿であったなら、さぞや様になったであろう。
「や、あっ……やめてよ。もう、そんなことをする間柄じゃない。私たちはもう、昔の私たちではないのだから」
慌てて両手を振ったが、律自身も気づいていなかった。その時の自分がついまた自分を「私」などと言ってしまっていることに。
「あなた様と自分が、すでにかつての鎌倉殿とその御家人でないことは重々存じております。なれど、記憶がよみがえった今となっては、それをすべて否定するのも難しいこと」
「そ……それは、そうだけど」
「あの女性は、自分にまだ過去の記憶のないとき、ただの愚かしい若者としてだけ生きていたときに、あちらから強引に近づいてきたゆえ付き合うことと相成りました」
「ああもう。難しい言い方をしなくていいってば……」
律は頭を抱えてしまった。
それはなんとなくわかっていた。清水海斗は女性にモテる男だ。笹原なぎさが言っていた通り、彼を狙っている女性はたくさんいた。その中で最も押しが強く、頭も回る存在だった彼女が海斗の隣を射止めたという話に過ぎない、ということなのだろう。
「じゃあ、その……笹原さんから告白されてつきあってるんだ?」
「……左様にございます」
「海斗さんは? 彼女のことを好きじゃないの」
「記憶のない頃には、そう思っていたかもしれませぬが。それでも、今にして思えば『別に嫌いではない』という感じにすぎなかったようにも思われまする」
「え?」
いや、それは「好き」からはだいぶ離れた感情なのでは。
「なれど、ただいまの顛末を聞いてからは、嫌悪感がいや増しておりまするが」
「う。……いや、いやいやいや! それはマズイでしょ」
「なにがまずいのでしょう? 裏であれこれと薄汚い工作をして人の縁を断ち切ろうというのは愚劣、愚策であるばかりでなく、己が品位をも下げる行為と存じまするが。まさに下品の行いにございましょう」
「そっ、それはそうだけどお!」
まったく困った男だ。
前世の時からそうだったけれど、この男、誠実でまじめなのはいいのだが、少々頭が固すぎるきらいがある。ひとたび「こいつは不誠実」と思ったら、もう決して心を開かないような堅苦しいところがあるのだ。それもまたこの男のいいところでもあり、自分が彼を愛した大きな理由でもあったけれども。
それに、それはもちろん、あの鎌倉で信じていた人々から裏切られ、信じた人が大好きなだれかを裏切り、殺しあうという、無常の世界を経験してしまったからでもあるのだろうし。だから決して、彼だけを責められるようなことではないのだ。
恋ひこひて まれに逢ふ夜の 天の川 川瀬の鶴は 鳴かずもあらなむ
『金槐和歌集』169




