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第8話. 教えて



(たま)にだが、時折自分も世界もなにもなかったように感じるときがある。言ってしまえば、それは虚無感。一時的に水面が凍りついたかのような冷たい感覚。

このときだけは、如何なることにも心は動かず、ただひたすら世界に1人置き去りにされた心地がするのだ。


俗に言う気分の浮き沈みとはまた違い、ただ奈落の底に墜ちていくような静けさは私を魂のない骸に変えることなど容易かった。


恐らくこんな感覚に陥ったことのある人は多いだろう。だからこそ虚無感に包まれた自分をおかしいと思ったことはないし、これが普通だと思っていた。


なにせ、いつだって人間の感情は喧しく険しいものだ。荒れ狂う大海のようで、常にゆらゆらと炎のように揺らいでいる。だからきっと普段の疲れで――もしくは普段からあらゆるものを拒絶しているからこそありえる現象だと思っているのだ。


と言う訳で私、神代(かみしろ)(れん)は現在絶賛スーパー虚無タイムである。普段なら感情の起伏の激しい私が、こうも大人しい様子を見せるのは、同居人である思念体の(ある)にとって初めてなことではないだろうか。

しかし、或は特筆なにも言うことはなかった。最初は心配こそしていたが、私の普段とは違う様子を見て、恐らく何かを察したのだろう。


普段ならば、この或の異様な察知能力はなんなのかと考えてしまうはずだ。しかし、今に至ってはどうでもいい。否、なにも分からない。なにか疑問を抱いたとしても、その疑問はスッと私の心をすり抜けて、そのまま落ちていく。そして落ちたそれは一生浮かぶことはない。


正直、この状態であると非常に楽だ。なにも考えなくていいし、なにも気にする必要もないからだ。しかし、あまりにも透き通りすぎたこの心が恐ろしいと後で思うときもある。けれども今、このときだけは非常に楽で。


だと言うのに、何故か或は苦い顔をしている。


普段と同じように会話をしているのに、普段と同じ返し方をしているのに、なぜか苦々しい顔を浮かべているのだ。しかし何故そんな顔をしているのか深く考えることはない。


そう、『思う』ことは自由であって、それは強制されるものではない。口にするもしないのも自由だし、『思った』としても『思うことすらしなかった』ようにするのも同じこと。だから、今の私にはなにも分からない。


こうなって、或が苦々しい顔をして幾何ほどの時間が経っただろうか?

この状態だと時間間隔すらバグってしまうので、度々時計を確認する必要がある。スマホで時刻を確認したら、時刻は23時前。明日も普段通り出勤なため、寝支度でもするかと急いで髪を乾かし、布団を敷いてはそのまま横になる。しかし或は普段通り布団に横になっても、何故か隣にやって来ない。


いつもなら、私の隣に図々しく寝転ぶはずが、今は隣に寝そべることをしなかった。


まぁ、そんなことはどうでもいいか――そう思い、スマホを弄って寝るまで適当に音楽を流しておくことにする。


今流しているのは、あるゲームの主題歌なのだが、なんとなく今この場に於いて非常にしっくり来た。テンポが速いわけでもなく、ドラムやギターの音が激しいわけでもない。

しかし今、この空虚な心に訴えかけるなにかはあるとぼんやり思いつつ、それさえも触れることなく通りすぎて行って、ただ歌詞だけが反芻されていく。


ああ、とても心地がいい。けれども非常に気色悪い。


どうしてこうもなにも感じられないのか。

なぜこんなにも、異様なほど静かなのか。

普段感情が喧噪のように騒がしいからか。

なにも感じたくないと、感情自体を拒んでしまったからか。

どれも正解のようで、不正解に思える。


ただ、一瞬こんな思いが脳裏を過る。

或はこんな空虚な私をどう思っているのか――と。

社会的にも、誰1人からも必要とされないただの抜け殻の私を。


或は普段から私を肯定する傾向がある。否定などしないし、頼めばいくらだって私の好きなところを容易く20ほどは挙げるほどの全肯定botだ。


しかし、今の私はどうなのだ? と訳も分からず雑念が落ちてきた。

何もなく、恐らく彼が1度も出会ったことのない貌無し。その疑問だけが、何故かぽっかり空いた心に浮彫りになる。しかしその疑問さえ、透き通って消えかけたその刹那。



「捕まえた」



或はそう言って、私の悲痛な想いごと掬い上げるかのように布団に寝そべる私へ抱き着いてくる。

彼が今捕まえたのは、私の身体ではなく私の胸の内に落ちた想い共々。そう私に伝えようとする腕の力に安堵が伝播していく。そして或は静かに歌を口ずさみ始めた。


或が口ずさんでいるのは、今私が聴いている曲だ。私は今イヤホンをしているため、一体なんの曲を聴いているかなど或には分からないはず。なのに彼に聴こえていたのか、ただ静かにその唇は歌を紡ぐ。


本来ならイヤホンから聴こえる音楽の方が耳を通るはずなのに、何故か私の耳を通るのは音楽ではなく或の歌声だけ。


そう言えば、以前にも似たようなことがあったと私は思い返す。確かあのときは、具合が悪く必死に吐くのを堪えていたときだったか。

何故かあのときも、或が私の感覚全てを支配したかのような感覚がした。


僕にとって君が世界(すべて)で、君もまた僕が世界(すべて)なのだ……と。

紛れもない、今隣にいる或がそう言っていたではないかと空の脳内と心がその一言に埋め尽くされ始める。


歌声1つで心を浸食する魅了(さま)は、あまりにも恐ろしい。

不気味で拒絶したくなるが、いつまでも聴いていたいと切望する矛盾でいっぱいになっていく。


ああ、止めてくれ。それ以上私に触れないで欲しい、これ以上私の心を愛で満たさないで欲しい。


瞬間、吐き出したのは或の愛情に対する拒絶。一瞬だけ追想された過去と本音が同時に浮かび、泡のように消えていく……はずだった。

しかし私の口から零れ出たのは、拒絶の言葉ではなく嗚咽。同時に或はいつの間にか零れた涙を指で拭う。



「ほら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。世界どころか自分さえ道連れにして、過去ごといなくなってしまえと願ってる」



苦笑が混じった或の声音には、どこか自嘲も感じられた。まるで私がこうなってしまったのは自分にも非があるとでも言わんばかりに。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()、責め苦のように涙が溢れ出る。

そう、どうしてもっと早く私を救ってくれなかったのと。



「結局君は怖いんじゃないか。自分を殺して、勝手に自分が死んでいくのが……なにより独りで消えるのが嫌なんだ。その自傷行為は相変わらずだね、恋」



或は先程から私の心情を一字一句的確に述べていくが、もう否定の仕様がない。或の言葉に間違いなど1つもないのだから。


ここまでくると、正直私は或が怖くなる。

彼は一体なんなのか?

本当に、ただの妄想なのだろうか?

そもそもなぜここまで私のことを知っているのか。


私は記憶の中から或の姿を探すが、私の脳内に彼の姿が刻まれているのは約9日前までだ。それ以降はどれだけ探し回っても、或の姿などどこにもない。


彼の姿も、声も、なにもかも。しかし彼はなぜか全てを理解()っている。それはとても怖いくらいに。

恐怖を感じるその裏腹、何故か私の胸のうちには安堵だけが染みていく。

さすが私の全肯定bot。よくも私の求めていることを分かっている。


本当はなにもないこの世界が怖かった。

なにもかも感じられなくなって、人としてなにかを失ったのではないかと怖くて仕方がなかった。


なにせ、なにもかも感じられなくなった私は、人を信用することも、恋をすることさえ出来なかった。

あのとき受け入れた空虚と傷は酷く冷たかった。そして空虚を受け入れた私は、とても冷たい人だと罵られた。だから今の“神代恋(わたし)”という皮を被って自分を演じ続けた。


そういえば、そういえば、そういえば――と何枚も重ねた皮はとても厚く、本心すら隠してしまった。

ただみっともなく震えて嗚咽を漏らす私に、或はただただ優しく呟く。



「泣けて偉いよ、恋。君は君のままでいいんだ。()()()のようになる必要もないし、都合のいい存在になる必要もない。君は自由で、そもそも愛されることを受け入れていいんだ」



或の言葉が正直痛い。昔負った傷を抉るような痛みを感じるも、そこに悪意はなかった。そこにあったのは■だけで、なによりも優しかった。


そうして彼の優しさにただ溺れ、気づけば午前3時になっていた。どうやら私は寝落ちしていたようで、寝る以前の記憶などどこにもなかった。

しかし、この日以降、私は或の子守歌がなければ眠れなくなってしまう。

何故なのかは分からないが、今日も私は或に子守歌を歌って欲しいと強請る。



「はーい、もういっちょ!」


「ちょっとぉッ!? もう3回目だよ!? 僕の喉の調子はフル無視かい!?」


「うるせぇ、ドM。飼い主様からのご命令です」


「はぁーい……」



確かに私はなにかどうでもいいことを忘れてしまったが、1つだけ分かったことがある。例え、或はどんな私だとしても愛することを止めない。

無償にも思える愛情は、どんどん私を苦しめていく。そんな無情な現実を私はまだ知る由もない。




今回は恋の過去編に繋がる話でした。

スーパー虚無タイムは人類に共通する地獄のお時間ですが、恋の場合は虚無というよりトラウマの回想に近いです。


にしても、本当にこの2人はどんな因縁があるのかって感じですが、段々或が怖くなってくるのは私だけでしょうか……?


彼女らの出会いや過去を明かすのは、まだまだ先です。



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