【短編版】捨て犬令嬢ですが、尻尾を振るとでも?
【ブラックドッグ 】
黒い犬の姿をした不吉な妖精のこと。ヘルハウンドとも。
炎のような赤い目に、黒い体の大きな犬の姿をしている。夜中に十字路に現れることが多い。
新月の女神ヘカテの従者。彼女に従属するブラックドッグたちは、死の先触れや死刑の執行者として人々に忌避されている。
ただし墓守犬としてのブラックドッグは、墓地を墓荒らしから守る以外に、人を害することはない。道に迷った子供を助けたりするなど、基本的に温和であるーー
◆◆◆◆◆
「聞け、ヒルダ! 若き大富豪として有名なあのヘル=ハウンド男爵が、お前と結婚したいそうだ!」
私の部屋をノックもせずに開け、唾を飛ばして興奮も露わに報告する父。でも私は、ヘル=ハウンド男爵など知らない。
「とりあえずホールにお通しした。さあ、ドレスに着替えて」
「いいえ。このままで結構です」
私は部屋着をつまんだーー飾り気のないワンピース。そのままの格好で階段を降りる。別にパーティーに行くわけじゃない。自分の屋敷で突然の来客に対応するのだから、ドレスアップしなくてもいいはずだ。
初対面の男爵様は、黒いタキシード姿で、顔が隠れそうなほど大きな薔薇の花束を抱えていた。
「ヒルダお嬢様。あなたを愛しています。結婚して下さい」
作法も何もない、いきなりすぎる求婚。
花束を恭しくこちらに差し出して、輝くような笑みを浮かべる。
美形。
百人の女性が見て、百人がそう思うだろう。
涼しげな目。高い鼻。優しそうな口元。
まるで、劇画から抜け出てきたような完璧な顔立ちだ。
スタイルも抜群。痩せ型で背が高いから、背が低くて寸胴の私とは真逆。
私はヒルダ・ゴズリング。子爵家の長女。十八歳。
自慢じゃないが、誰からも愛されたことはない。
理由は単純。私の容姿が、犬に似すぎているからだ。
犬令嬢。
口の悪い貴族の子たちは、そう呼んだ。
それだけじゃない。家族も陰で、「みっともない顔」と言っていた。
私は額が広くて、鼻すじが高い。
眉は太く、目は垂れていて、黒目がち。
口角に丸みがあって、顔のパーツがやや中央に集まり、面長。
まさに犬。自分で鏡を見ても、そう思う。
「初めまして、男爵様」
いっさい心をこめずに、カーテシーをした。これとても、他人の目からはまるでプードルがお辞儀をしたように滑稽に見えることを、私は自覚していた。
「僕と、えー、婚約、して下さるでしょうか?」
美形の男爵様が、おずおずと言った。
それに即座に「否」の返事をしようとすると、
「待って下さい。それは両家の親同士で決めます。失礼ですが閣下はーー」
「僕の両親は他界しています。お父様と僕とで決められますか?」
私の父のことを、もうお父様と呼んでいる。
「もちろん、私に異存はない。娘をもらってやって下さい」
キッと父をにらんだ。
「お父様。私の気持ちは、聞いて下さらないのですか?」
「娘よ、正直に言おう。これ以上の縁談が、この先一生あるとは思えん」
つまり、誰にも愛されない犬令嬢のヒルダ・ゴズリングは、プロポーズをする男性が現れただけでも喜んで、尻尾を振って嫁に行けというのだ。
「無理です。男爵様とは今会ったばかりです。それをもう婚約ーー」
「贅沢を言うな。一度も会わずに結婚が決まることなど、いくらでもあるだろう?」
それは政略結婚ですね、お父様。ということは、この降って湧いたような大富豪との結婚話は、お父様にとって実においしい「政略結婚」になったのですね。あー、そうですか。
「ヒルダよ、お前はひねくれているぞ。ヘル=ハウンド閣下に、何か不満があるとでもいうのか?」
それを父に言っても無駄だ。きっと誰にも、私の気持ちはわかってもらえない。
物心ついたときから、ずっと容姿を蔑まれ、親からも哀れまれて育った十八歳の令嬢は、そう簡単に愛の言葉を信じない。
「わかりました、お父様。嫁に行けと言うのなら、お望みどおり家を出ます。というか、こんな愛のない家からは早く出たいです。どうぞ犬のように捨てて下さい」
「おお、ヒルダお嬢様。僕と結婚して下さるのですね?」
(そんな愛の言葉、信じない!)
「違います。私は捨て犬です。拾って下さるならどうぞ拾って下さい。でもそう簡単に妻になるとは思わないで下さい。捨て犬にもブライドがあります。男爵様と私とのあいだに本物の愛が育つまで、結婚はしません。だって結婚って、本来そういうものでしょう?」
父は「このひねくれ娘め、勝手に出て行け」と毒づいたが、意外にも男爵様は嬉しそうに花束を振り上げ、
「ああ、それこそ僕の望むところです! どうぞ二人で愛を育てましょう!」
と、まるで少年のように、大ホールのフロアを飛び跳ねるのだった。
◆◆◆◆◆
捨て犬の私は、生まれ育った家に何の未練もなかったので、トランク一つ分の服や小物だけを持ち、ヘル=ハウンド男爵様の豪華な二頭立ての四輪馬車に乗った。
ゴトゴト揺られながら、レースのボンネットを被った頭を、隣の男爵様のほうへそっと向ける。
「男爵様、私にずっと憧れていたとおっしゃいましたけど、あれはどういう意味でしょう?」
「おお、よくぞ聞いてくれました!」
男爵様の目は、感動で潤んでいるように見えた。
「あれは今年の五月、月のない晩のことでした。貴族学校の卒業パーティーから帰るあなたを、偶然見かけたのです」
今は九月。だからあれは四ヶ月前のことになる。
私にとって、史上最悪の日だった。
学校生活そのものに、いい思い出はなかった。
容姿に引け目を感じ、また実際に容姿を笑われていた子爵令嬢ヒルダ・ゴズリング。
「うわー、犬にも衣装だねえ! 爆笑」
パーティーの雰囲気に舞い上がった男子や女子は、普段よりも軽口がひどくなった。
想像してみてほしい。
直立した犬が精一杯のドレスアップをして、頭に角帽を載せたところを。
あなたも笑いますか? それが当然だと思いますか?
私はその発言をした男子の頬を張った。
私自身は、張り手をしたつもりである。
ところが他人には、爪で引っ掻き攻撃をしたように見えたらしい。そこでまた笑いが起きた。
我慢できずにパーティー会場をあとにした。
その日はたまたま新月だった。
もう陽が落ちていたので、月のない夜は暗かった。
待たせてあった二輪馬車に乗って、屋敷に帰った。
あの短い帰り道で、誰かに見られた記憶はない。
他の馬車とすれ違うこともなかったし、道を歩く人の姿もなかった。
ただ、馬車が十字路に差し掛かったときに、両目が炎のように赤く光った大きな黒犬がいて、それにジーッと見られたことを、気味悪く憶えているだけだった。
「あの暗い夜道のどこで、男爵様に見られたのでしょう?」
「フフフ。僕は夜目が利きましてね。まあ、それはジョークとして、あのころの僕は、乞食同然でした。路上生活をしておりましてね。路地裏で寝そべっていたときに、あなたを目撃したのです」
満面笑顔の男爵様をまじまじと見つめた。
「あのー、それはいったいどういう御冗談でしょう?」
「なんの、冗談ではないのです。ほんの四ヶ月前まで、僕は何の誇張もなくそういう存在でした。人々に忌み嫌われ、あいつが現れると不吉だ、死人が出るぞ、なんて悪口を言われたりして。でもあなたに恋をして、生まれ変わったのです。あなたに近づける存在になりたいーーただそれだけを願って、一念発起して財産をなし、成金男爵としていささか有名になりました。そこで今日、あなたに会いに来たというわけです」
男爵様の奇妙な告白は、謎だらけだった。
「では男爵様は、どのようにして大富豪になられたのでしょう?」
「ああ、それですか。僕には幸い、高貴な身分の知り合いがおりまして、そのお方の住む場所で産出される稀少な宝石を、『月の石』として販売する権利をいただいたのです。これが世界中の金満家のあいだで評判となり、僕はさほど苦労せずに富豪となりました……ああ、着きましたよ。成金の僕が住むようになった屋敷です」
着いた場所は、ほとんど森の中だった。
鮮やかに紅葉したメイプルが繁る向こうに、黒い館の姿が見えていたが、やがて一直線に伸びる鉄柵が現れて、その突き当たりが門になっていた。
「ケン、門を開けて」
男爵様が声をかけると、それまで二頭の馬にリズミカルに鞭を当てていた御者が、御者台からポンと飛び降りた。
「あら」
私はつい声を洩らした。門に向かって駆け出した御者の背丈が、まるで子供のように小さいことに初めて気づいたのだ。
男爵様のエスコートで馬車を降りた私は、重々しい鉄門を開けてくれた御者の背中に、「ありがとう」と声をかけた。
するとその小さな御者は、ビクッと身をすくめた。
「ケン、ご挨拶しなさい」
男爵様が声をかけると、
「……こんにちは」
振り向いて高い声で言ったので、彼がまだほんの少年であることがわかった。
「こんにちは、ケンさん」
私が挨拶を返すと、恥ずかしそうに顔を赤くし、馬車に駆け戻った。
「ケンは孤児でしてね。あの歳で乞食をしていたのです。僕は成金になると、彼のことを思い出して、育てることにしました。なかなか働き者なので、屋敷の雑用をやらせています」
「歳はいくつですの?」
「あれでもう、十五になります。成長期に栄養不良だったせいか、大きくなりません」
十五歳なら、私と三つしか違わない。そう考えると小さすぎるが、立派に御者をして、屋敷で働いていると聞くと、何だか私よりも大人のような気がしてくる。
馬車のあとから歩いて門をくぐった。
噴水の横を通り過ぎたとき、大きな黒犬が寄ってきた。ニューファンドランドだ。
正直に言おう。私は犬に親近感を持っている。人間より、ずっと好きなくらいだ。
(ああ、私の大好きな大型犬。体重は六十キロもありそう。抱きつきたい、さすりたい、モフりたい……)
「僕の飼っているチョコです。黒い犬は好きですか?」
「ええ、とても」
「チョコも、お嬢様に一目惚れしてしまったようです。大好きだと言っています」
「あら、男爵様は、犬の言葉がわかりますの?」
「もちろん。ヒルダお嬢様は、わかりませんか?」
ニューファンドランドの顔を、じっと見つめた。
(……おじょう、さま、だい、すき)
私はさっと男爵様を見た。
「わかりました」
「でしょう?」
「変な気持ちです」
「お嬢様には、その才能があると思っていました。僕の屋敷に来て、きっとその才能が一気に開花したのです」
「犬の言葉がわかる、才能ですか?」
「ええ。犬が本当に好きで、心が極めて純粋できれいなら、会話できます」
私はチョコの背中をさすりながら、訊いてみた。
「あなたのお腹に顔をうずめても、いい?」
(……どうぞ)
チョコはそう言うと、ゴロンとお腹を向けて寝た。
私は思う存分、チョコのお腹をモフった。
「おい、チョコ。いい加減にしろ。甘えすぎだぞ」
チョコから顔を離して見上げると、男爵様の様子は、明らかに苛立っていた。
(男爵様、もしかして、嫉妬?)
私は思わず噴き出した。
「……何か、おかしいですか?」
「ごめんなさい。男爵様が、嫉妬なさっているように見えて」
「ヒルダお嬢様。僕は恋を知ったばかりなのです。まだ落ち着いた気持ちではいられません。少々心が乱れることもあります」
「でもまさか飼い犬にーー」
「関係ありません!」
男爵様は大きな声を出したが、すぐに反省したように身体を小さくした。
「すみません。もっと大人にならないといけませんね。こんなことで嫉妬しているようじゃ、いい夫になれません」
「男爵様のお歳は?」
「二十七です。しかし時々、百万年も生きてきたような気もするし、産まれたての赤ん坊のような気もします」
やはり男爵様は、どこか不思議だ。
「これが僕の屋敷です」
馬車からも見えた黒い館の前にいざ来てみると、まるで王侯貴族でも住みそうな大きさだった。
「……すごいお屋敷ですね。宝石の取り引きだけで、これを建てたのですか?」
「いえいえ。たった四ヶ月でこの館は建ちませんよ。僕には高貴な身分の知り合いがいると言いましたが、これはその方が趣味で購入された廃館の一つなのです。それを改装し、僕に下さったのです」
その高貴な方は、ずいぶん気前がいい。
「黒い館というのは珍しいですね。何だか、幻想的な感じがします」
「新月館と呼ばれていたようです。まるで新月の夜のように真っ黒だという意味で。しかし僕は、黒犬館と呼んでいます。ヒルダお嬢様は、どちらの呼び方が良いですか?」
「新月館で」
犬令嬢が黒犬館に住んだら、なんだかなー、である。
「ではどうぞ。屋敷を案内します」
男爵様に促されて、ホールに足を踏み入れる。
ふっと、幻想の世界に迷い込んだ気分になる。
高い天井と壁のあちこちに、さまざまな伝説の獣の絵が描かれ、柱にも恐ろしげな獣の首が刻まれていた。
「前の持ち主の趣味でしょうね。古代の武器やら、拷問具などが飾られたりしていますけど、気にしないで下さい。僕には興味のないものばかりです」
それには答えなかった。
私が見ていたのは、絵でも飾りでもなかった。
ホールから二階に上がる大階段の途中に、黒いメイド服を着た女性が立っていた。
その、すらりとしたスタイルの、まだ少女らしく見えるメイドの目が、エメラルド色に妖しく光っていたのだ。
するとーー
「あっ、彼女!?」
少女はホールに響き渡るほどの大声を上げ、階段を一段飛ばしで降りてきた。
メイドは男爵様の真ん前に来ると、何のためらいもなくその腕をつかんだ。
「ねえ、ねえ、彼女連れて来たの? 紹介して!」
男爵様の顔を、エメラルド色の瞳で見上げながら、まるでおねだりするような口調で言う。
(何という馴れ馴れしさ……何という口の利き方……)
メイドの態度にも呆れたが、それを許している男爵様の方針にも、強い拒否感が起こった。
「ルナ。ヒルダお嬢様だ。ご挨拶しなさい」
「ヒルダさん? おじさまの彼女ね。わー、可愛いー、目がクリクリしてるー」
こめかみで、血管がひくひくと脈打つのを感じた。
「男爵様」
私は努めて冷静な声を出そうとした。
「こちらの女中? 下女? ハウスキーパーの方でしょうか? 私、他家の使用人と話すのは生まれて初めてですので、どのように話したら良いのかわかりません。紹介していただけますか?」
「ルナは」
と男爵様は、私の超人的な忍耐力に気づかない様子で言った。
「例の高貴な方から頼まれて、ここで修行させているのです」
「高貴な方ってヘカテおばさまのこと? ヘカテおばさま、優しいよー」
男爵様はメイド服の少女にちらりと目をやり、
「この際だから申しましょう。ヘカテ様は、遠いところにおられる女王なのです」
と、男爵様は説明した。
「そしてルナは、女王の下僕の一人です。実を言えば、僕も女王にお仕えする光栄に浴していました。男爵の称号も、ヘカテ様に賜ったのです」
「あら、男爵様は、異国の方だったのですね?」
男爵様が頷いた。
「何というお国ですか?」
「ニュームーン国です」
ニュームーン国……聞いたことがない。
「すみません。恥ずかしいかぎりですが、初めて聞きました。どちらのほうにあるお国なのでしょう?」
「海の彼方です。知らなくて当然です。何しろ遠いですから」
「船でいらっしゃるのに、何日くらいかかりました?」
「およそ三ヶ月。大冒険でしたよ」
男爵様は不思議な方だとずっと感じていたが、それは異国の出身であることが理由のようだ。シェナ王国から一歩も出たことがなく、この国の常識しか知らない私とは、感性も価値観もまったく異なっているのである。
「そうですか。男爵様もルナ様も、王宮に仕える方だったのですね」
「ルナ様って言わないで! ルナって呼んで!」
もう口の利き方に迷わなかった。私のほうが、彼女の「常識」に合わせよう。
「ルナ、ごめんなさい。さっきはよそよそしい態度をとって。何歳?」
「十四。ヒルダさんは?」
「十八歳。ヒルダでいいわよ」
「でも、おじさまの彼女だもんなー。お嬢様って呼ばせて」
「彼女じゃないの。捨て犬。男爵様に拾ってもらったの」
「捨て犬? 拾った? 何それ。超ウケるー!」
屈託なく笑うルナを見て、笑われたという屈辱感は起きなかった。
かえって愉快な気分になった。
「ねえ、ルナ。一つ教えてくれる?」
「何?」
「さっき私を可愛いって言ってくれたでしょ? ニュームーン国では、どういう顔が美人なの?」
「美人? そうだなー。髪の色はゴールデンレトリバーみたいで、瞳はマルチーズで、鼻と口はポメラニアンが理想かなあ?」
私の心はパーッと明るくなった。
なんと、私の犬顔を超えた犬顔が、「美人」とされる国があった!
(何て素敵なニュームーン国! もしそこで生まれていたら、性格も全然変わっていたに違いない。自信満々で、きっとめいっぱい恋を楽しんでいただろう)
その想像は愉快だった。誰も彼もがヒルダ・ゴズリングを振り返る。見ろよ、あのゴールデンレトリバーのような髪。ポメラニアンのような鼻。ああ、あんな美人がもし彼女、いや、そんな贅沢は言わないから、俺の妹だったらなー。
「ヒルダお嬢様、お腹がすいたでしょう? そろそろ夕食にします」
「もうそんな時間ですか?」
窓に目を向けて、初めて外が暗くなっていることに気づいた。大時計の針は午後五時半を差している。
「食事はルナが用意します。この屋敷は広いですが、僕は人を招いてパーティーをする気もないし、訪ねてくるような友人もこの国にはいませんから、使用人はルナと孤児のケンだけなのです」
「えっ、使用人がたったの二人?」
このことも、私の知る「常識」とはあまりにもかけ離れていた。
「それで充分です。僕は自分のことは自分でやりますし、庭は大部分が自然のままです。使う部屋も数部屋。ルナもケンも働き者だから、不足を感じたことはありません」
これがニュームーン国式なのか。と考えると、シェナ王国の貴族たちは、ずいぶんと無駄に使用人を雇っていることになる。
約一時間後、食堂でテーブルについているとルナが食事を運んできた。通常のコース料理とは違い、ほとんどが肉料理だった。
「イノシシは好きですか? 僕が獲ってきたものをルナが調理しました。温かいうちにどうぞ」
「……イノシシ、ですか?」
男爵様は嬉しそうだったが、私にとっては未知すぎる料理だった。
しかしーー
「美味しい!」
思わず声を上げた。
「もっと野生的な味かと想像しましたが、脂もスッキリしていて、とても上品です」
「新鮮な肉を使用していますからね。イノシシの生ハム、骨つきロース、イノシシとたけのこの包み焼き、赤ワインソースをかけた炭焼き肉……」
私は全部を食べることができなかった。
それは、量が多すぎたからではない。
「男爵様、ごちそうさまでした」
「もういいのですか?」
「すみません。あんまり甘えすぎました。次の食事からは、ルナさんやケンさんと同じにして下さい」
「どうして使用人とーー」
「捨て犬と思ってほしいのです。今はまだ、特別待遇を受けたくありません」
まだ中身が何にもない犬令嬢なのだ。このままではいずれ、男爵様を失望させる日が来る。
(何もできないお嬢様の私より、こんな料理を作れてしまうルナのほうがよっほど偉い。もし男爵様の獲ってきた肉を調理できたら、今よりずっと自信がつくかも)
食事のあとで紅茶を飲み、こうして男爵様に拾われた長い一日は終わった。
◆◆◆◆◆
男爵様の用意してくれた二階の部屋で眠ると、翌朝、扉にノックがあった。どなた、と訊くと、ルナとの返事。ならば寝間着のままでよい。
「みんなでお風呂にするけど、お嬢様も入る?」
ルナの言葉に驚いた。
「みんなって……男爵様と、ルナとケン?」
「ほかに誰がいるの?」
お風呂は庭の一隅にあった。丸太小屋の扉が開いていて、そこから白い煙が広がっている。
「スモークサウナよ。夜明けくらいからケンが薪を燃やして、中を温めてくれたの」
「まあ……朝の五時頃から?」
ルナに八時過ぎに起こされるまで、ベッドに沈み込むようにして寝ていた自分が恥ずかしい。
「スモークサウナって、初めて。どうやって入るの?」
「その小さな小屋が更衣室になってるから、そこで服を脱いで、タオルを身体に巻いて」
ルナと一緒にタオル一枚になった。女性の使用人の前で着替えるのは日常だったので、別に恥ずかしくなかったが、ルナが平気で裸になったのは何となく目のやり場に困った。
「ケン、入っていい?」
「いいよ」
返事があったので丸太小屋に入っていったら、私を見たとたんにケンは飛び上がった。
「わっ、待って、聞いてない!」
ケンが真っ赤になった顔を手で覆うと、
「何よ。お嬢様をお風呂に誘うのは当たり前でしょ。私と一緒でタオルを巻いてるんだから、過剰に意識しない!」
ケンは俯いたまま、柄杓の水を、小屋の中に積まれていた石にかけた。
すると蒸気が立ち昇り、熱気が身体にまとわりついてきた。
「どう、お嬢様、気持ちいい?」
「とっても。ケン、ありがとう」
「…………」
ケンが無言で石に水をかけたとき、扉が開いて、タオルを腰に巻いた男爵様が入ってきた。
今度は私がドギマギする番だった。
「ま、待って下さい。男爵様……え、混浴?」
てっきり男女は時間をずらして入浴すると思っていたが、男爵様は意に介するふうもなく、
「朝風呂をみんなで入るのは良い習慣です。食事だって、家族揃って食べるでしょう?」
しゃべりながら、ルナの横にどっしりと腰を降ろす。そして、
「水やりは僕がやるから、ケンも脱いでこい」
と命令した。ケンは小屋を飛び出すと、タオルを全身にグルグル巻きにして戻ってきた。
「まるでミイラだな。それじゃあ気持ち良くなかろう」
男爵様にタオルを一枚だけ残して剥がされると、ケンはますます赤くなって椅子の端っこに座った。
私は混浴の習慣に慣れることにした。これがニュームーン国式なのか、はたまたヘル=ハウンド方式なのかは定かではなかったが、とにかく郷に入れば郷に従えだ。
(といっても、なかなか男爵様のほうを見ることはできない。チラッと目に入ったところでは、胸毛がご盛んのようだけど、異国の方だから、あれで普通なのかもしれない……)
「お嬢様、今日僕と、買い物に行きませんか?」
話しかけられたので、ちょっとだけ男爵様のほうを見た。
(ああ、やっぱり。体毛が旺盛……)
「買い物ですか? どちらへ?」
「宝石屋です。商売で『月の石』を売るついでに、あなたにプレゼントを買おうかと」
私は即座に断わった。
「申し上げたはずです。捨て犬にそのようなものは要りません」
男爵様の横で、ルナがイーッと歯を剥いた。「せっかくの申し出を何で断わっちゃうんだよ!」という顔だ。
「……わかりました。ケン、馬車の支度をして。お嬢様は、ゆっくりと庭の散歩でもなさって下さい」
ケンがスモークサウナを飛び出していき、男爵様も扉の向こうに消えると、案の定ルナが詰め寄ってきた。
「何よ、さっきの態度。あの寂しそうな顔を見た?」
「だって」
私はがっくりと頭を垂れた。
「私はルナみたいに食事も作れないし、ケンみたいに火も熾せない。何の役にも立たないのに、宝石なんて買ってほしくない。私には男爵様に返せるものが何もないの」
ルナが立ち上がって、扉のほうに向かう気配がした。
「自信がない、自信がないって、そればっかり。少しは相手の気持ちを優先しなさいよ!」
ルナが出ていっても、しばらく動けなかった。
やがて、小屋の扉がノックされた。
ケンかしら、と思って扉を開けた。
ーー違った。
扉の外にいたのは、一匹の狼だった。
(は? この狼が、鼻面でノックした?)
私は硬直した。
至近距離で、体重が四十キロはありそうな狼がこっちを見上げている。
助けを求めて大声を上げたらやられると思った。もちろん走って逃げられるわけもない。
一か八か、じっと見つめ合った。
すると奇跡が起こった。
(……フロ……フロ)
何と、狼の心の声が聞こえたのだ!
(え、どういうこと? いつの間にか、野生の狼とも会話できるようになったの?)
試しに、声に出して言ってみた。
「あなた、もしかして、お風呂に入りに来たの?」
(……フロ……フロ)
「そっか。前にも来たことがあるのね。蒸気のお風呂、気持ちいい?」
(……オフロ、キモチ、いい)
やった! 会話が成立した!
「男爵様が入れてくれたの? あ、男爵様ってわかる?」
(……ヘル=ハウンド、さま)
すごい。狼でも、人間の名前を憶えられるのだ。これはひょっとすると世紀の大発見かもしれない。
「おいで。この石の前に来て」
(……どうも)
ケンがやったのを真似して、柄杓で石に水をかけてみた。
狼が気持ち良さそうに目を閉じた。
そのとき、
「ちょっと、いつまで入ってるの?」
ルナが扉を開けた。
その瞬間、
「ギャー!!」
狼を見て逃げてしまった。
「大丈夫よー、おとなしいからー!」
そう叫ぶと、ルナが戻ってきて、扉から半分だけ顔を出した。
「それ、群れのリーダーよ。この森に棲んでるの」
「あ、この子を知ってるの?」
「スモークサウナに味を占めてしょっちゅう来るの。ほら、おじさまって、狼に強いじゃない?」
「狼に強い? あっ、そうか、狩りが得意だからね」
動物は、自分より強いものを畏怖する。イノシシを銃で狩る男爵様を見て、「ヘル=ハウンド男爵様は強い」と尊敬するようになり、まるで男爵様のペットのようになったのだろう。
「だけど私、狼はダメ。虎とかヒョウなら、猫の仲間だからいいんだけど」
「この森には虎やヒョウもいるの?」
「残念だけど、山猫くらいしか」
私はルナに、狼と会話できたことを教えた。
「嘘でしょ?」
「じゃあ見ててね。狼さん、口を開けて」
狼が口を開けた。
「閉じて」
口を閉じた。
「三べん回って」
その場でぐるぐる回る。
「ワン」
「アウォーン!!」
ね? という顔でルナを見た。
「すごいでしょ? ぐうの音も出ない?」
「すごいっていうか……」
突然ルナが、バシッと背中を叩いてきた。
「痛い! 何するの!」
「すごいじゃない!」
「だから、すごいでしょって言ったじゃん」
「すごいどころじゃないよ。狼としゃべる令嬢。人類史上初じゃない?」
「そんなことないわよ。男爵様は、普通にペットの犬としゃべってたよ」
「おじさまは特別。とにかく、特殊能力なのは間違いないよ」
男爵様は、才能と呼んでいた。犬が本当に好きで、心が極めて純粋できれいなら、犬と話ができると。もちろん狼は犬の仲間だ。
「ねえ、お嬢様」
ルナの口調は弾んでいた。
「私は何の役にも立たない捨て犬令嬢だなんて、ウジウジしてばっかりいたけど、この特殊能力を活かしたらとんでもないことになるんじゃない?」
「とんでもないことって?」
「仕事にするのよ」
ルナの目が、エメラルド色に輝いた。
「犬と会話できるって宣伝するの。貴族連中は珍し物好きだから、きっと見に来るわ。それで報酬を得れば、おじさまに申し訳ない気持ちも減るでしょ? せっかくの能力なんだから、堂々と使って!」
私は考え込んだ。
「この能力って、仕事になる?」
「なるよ。ペットの犬の気持ちを、正確に教えてあげられるじゃない。もし犬が元気がなくて、心配している飼い主がいたら、その原因を聞いて伝えてあげるの。犬の、心のお医者さんになれるかもよ」
「犬の心のお医者さん?」
そんな職業は聞いたことがない。だいたい、医者というのは人間を治すのが仕事であって、動物の医者という発想はとても奇妙に思えた。
「どう? 人の役に立つんじゃない?」
人の役に立つ。
子爵令嬢ヒルダ・ゴズリングは、人の役に立ちたいか?
答えは、「応」だ。
「私……もし苦しんでいる犬がいて、その犬と飼い主を助けられるんだったら、ぜひやってあげたい。報酬をもらうかどうかは別として、それをできるのが私だけだったら、やるべきかなと思う」
「すごい! 絶対やって!」
ルナに両手を握られて揺さぶられたとき、お腹の芯から、ガタガタと震えが起こった。
◆◆◆◆◆
男爵様は夜の七時に帰ってきた。
ルナと私から話を聞くと、
「素晴らしい! 犬の医者は、ぜひやるべきです!」
手を叩いて喜んだ。
「この屋敷の門に、『ヒルダ犬病院』と表札を掲げましょう。院長ヒルダ・ゴズリング、助手ヘル=ハウンド、受付ルナ、その他雑用ケン」
話がずんずん進んでいく。
「待って下さい。『ヒルダ犬病院』はちょっと……」
「お嫌ですか?」
「せめて、『ヘル=ハウンド犬病院』で」
「ではこうしましょう。ヘル=ハウンドのHとヒルダのHをとって、『H&H犬病院』にするのです。そしてその看板を、この森に続く坂道の下に掲げます。街の中心からこちらへ来る道の脇にも、いくつか看板を立てましょう」
「それと、男爵様のほうがきっと私よりよく犬と会話できるから、男爵様が院長をなさって下さい」
「ダメです。小型犬は、僕を怖がります。とても正直に心を開いてはくれません。犬の心の医者は、ヒルダお嬢様にしかできないのです」
男爵様の言葉は、どこまでも優しい。
「幸い僕の知り合いに、犬の研究をしているガルム師という錬金術師がいます。ひょっとすると彼が、犬の病に関する知識を持っているかもしれないので、明日にでも会いに行ってみます」
ということで、翌日早く男爵様は、ケンと出かけていった。
私とルナは、朝から宣伝用の手紙書き。これを男爵様と取り引きのある宝石商に委ね、上得意の紳士淑女に渡してもらう。
何せ、彗星のように社交界に現れた若き富豪のヘル=ハウンド男爵様は、人々の注目の的だ。不思議な輝きを放つ「月の石」を売る、謎めいた男爵様の私生活を知りたいと思っている人は多いだろう。
その男爵様が、犬病院という、世界にも例のないことを始めるのだ。珍しいといって、これほど珍しいこともない。珍し物好きの金持ち貴族は、噂の「新月館」を見るためだけでも、きっと飼い犬を連れて訪れるだろう。その中に、もし本当に心を病んでいる犬がいたら、ぜひ力になってあげたい。
夜帰ってきた男爵様が、満足そうに報告した。
「ガルム師には会えました。犬にも効果があるという薬草を譲ってくれるそうです。彼は何百匹もの犬と共同生活をしているので、信用していいと思いますよ」
そのガルム師自身に、犬の医者をする意思はないという。貴族のペットを相手にするより、野犬の研究をすることに情熱を傾けているそうだ。
「看板も手配してきましたし、内装も頼みました。大ホールは待合室とし、客間を診察室にするのが良いでしょう。それと、犬に関する文献や書籍を大量に注文してきました。それらは書庫に収めておきますので、暇なときにでも読んで、お嬢様の貴重なお仕事の役に立てて下さい」
「本当に何から何まで……」
本業の宝石の仕事が疎かになるのではないかと、心配になるほどの男爵様の入れ込みようだった。
診療時間は、月曜日から金曜日の、午後の二時から五時までの三時間とした。ルナとケンは、屋敷の仕事が多々あるので、あまり診療時間を長くすると、二人の仕事が増えて大変になると考えたのだ。
「ルナとケンは無理しないで、お屋敷の仕事を優先してね」
「でも私、受付やるの楽しみ。いらっしゃいませーって言ってみたい」
「いらっしゃいは、ちょっと違うかな」
準備に忙しいある日、男爵様がプレゼントを買ってきてくれた。
「院長用の服です。きっと似合いますよ」
箱を開けると、真っ白なシルクのガウンが入っていた。
「……これを来て、お仕事をするのですか?」
「純白は、ヒルダお嬢様のイメージに合います。あなたは世界初の犬医者です。今後、犬医者というものが世間に知れ渡ったときに、その純白がイメージとして定着するでしょう。清潔で、純粋な心のイメージが」
鏡の前で着てみた。どう見ても寸胴で不格好。だけど、ダンスを踊るわけじゃない。必死になって働くのだ。格好などはどうでもいい。
そしていよいよ、「開業」当日の朝を迎えた。
「さあ、捨て犬お嬢様! 朝風呂よ!」
やけに気合いの入ったルナに連れられて、スモークサウナに入ったら、ほんの数分で具合が悪くなってしまった。
「私ダメ……吐きそう」
「何言ってるの。あんなにやる気だったでしょ?」
「みんな私のことを、バカにするに決まってる。女なんかに、自分の大事なペットを診られたくないに決まってる」
「しっかりしてよ。狼と会話して私をびっくりさせたみたいに、貴族連中の度肝を抜いてやって。神業としか思えないようなことを目の前で見せられたら、そいつらだって黙るよ、絶対」
サウナを出ると、朝食は抜きにして横になった。ルナが力づけてくれたおかげで、三時間ほど眠ることができた。
正午に食堂へ行くと、ルナがちょっとちょっとと手招きした。
「外を見て。気の早い客が、もう来てる」
「えっ?」
食堂の窓からは、門のほうが見える。ケンが門を開けて、馬車を庭に入れている。その数は、ざっと十輛……
急いで窓のカーテンを閉めた。
「どういうこと? 時間は午後二時からだって、ちゃんと手紙に書いたのに」
「早く来て、お屋敷を見物したかったんじゃない?」
少しは何かを食べようと思ったのに、胃が縮まって、結局また吐きそうになった。
「お嬢様」
男爵様が、晴れ晴れとした顔で食堂に入ってきた。
「客人の相手なら、僕がするから気にしないで。どうせ彼らは、お互いのペットや宝石類を自慢したくて集まったのですから。あなたはリラックスして、犬との会話に専念して下さい」
男爵様は庭へ出て行った。カーテンを細く開けて見ると、黒のタキシードを着た男爵様の周りに、まるで夜会に出かけるように着飾った紳士淑女が集まっている。
あと三十分で二時。落ち着かないので客間に行く。そこが、診察室だ。
しばらくして、ルナが客間のドアを開けて言った。
「すごいよ。もう二十組の家族が来てる。ダンスパーティでも始まりそう」
「二十組ですって!?」
私は悲鳴を上げた。
「無理だわ。私は一匹のワンちゃんと、最低でも十分間は話すつもりだったのに。もうこれで二百分、約三時間半でしょ? 五時に来た犬と話し終わるのは、八時とか九時になっちゃう!」
「慌てないで。会話するだけなら、集団でもできるでしょ? そこらへんはうまくやって」
「集団でなんか、話したことない」
「だから、そこを上手にやるのよ。プロなんだから」
「プロじゃない! 素人っ!」
が、泣いても喚いても、時計の針は正確に午後二時を指した。
そこへ男爵様が姿を見せた。
「どうですか、気分は?」
「はい。ありがとうございます。死にそうです」
ハハハと豪快に笑う男爵様。優しい方だとずっと尊敬していたのに……このとき初めて、その若々しい笑顔を憎らしく思った。
「客は僕が招き入れます。僕もこの診察室にいるから安心して下さい。最初のお客さんはポメラニアンです。五歳のおとなしいお嬢様ですよ」
男爵様がいったん廊下へ出て、四十代くらいの夫婦を連れて戻ってきた。
その夫婦は、私を見るなり「おやっ?」という顔をした。
きっと犬医者が、あまりにも見事な犬顔なのに驚いたのだろう。フン、勝手にしろだ。
それよりも、きらびやかな宝石類の目立つ御婦人が抱いている、白い毛のポメラニアンだ。
その子と目が合った。
じっと見つめ合う。
着飾った夫婦の姿も、「診察室」の隅で微笑んで立っている男爵様の姿も、視界から消えた。
その子の心だけに、集中した。
「こんにちは」
呼びかけてみた。
ポメラニアンは、鼻をグスッと鳴らすと、
(……こんにちは)
と答えてくれた。
その瞬間、それまでの緊張が消えて、すーっと気持ちが楽になった。
「はじめまして。私はヒルダ。あなたは?」
(……モコ)
「あら、そう。毛がモコモコしているからモコちゃんなのね。とってもいい名前ね」
ポメラニアンのモコちゃんに向かってそう言うと、抱いていた御婦人が目を丸くした。
「どうしてこの子の名前を? 調べたの?」
私は微笑んだ。
「彼女が教えてくれました。素直ないい子ですね」
隣の御主人が、身を乗り出して言った。
「では、モコが好きな食べ物を当ててもらおう。これは、私たちしか知らないはずだ」
「モコちゃん、あなたの好きな食べ物はなあに?」
(……メロン、メロン)
「メロンですね?」
夫婦が顔を見合わせた。
「合ってるわね。この子がそう言ったの?」
「ええ。頭のいい子ですね」
「へえー、こいつは驚いたな。それじゃあモコに、私たちのことをどう思っているか訊いてくれないか?」
「モコちゃん、御主人様のこと、どう思ってる?」
(……大好き)
「大好きだそうです」
立派な顎ひげを生やした御主人の顔が、デレっとなった。
「わたくしは?」
「奥様のことはどう?」
(……好き)
「好き、と言っています」
「まあ。主人は大好きで、わたくしは好きなのね。差があるのだわ」
「仕方ないだろう。犬は順位をつけるんだ。私が主だと、ちゃんとわかってるんだ」
御主人が愛犬の頭を嬉しそうに撫でた。
「ではこれで、よろしいですか?」
まだ家族が十九組残っているので、時間を気にしてそう言うと、
「この子の健康に、何か問題はないか?」
御主人に訊かれた。犬の医者を名乗る以上、この質問には答えなければならない。
「どう、モコちゃん。具合の悪いところはある?」
(……別に)
「食欲がないとか、どこか痛いとか、ない?」
(……食欲はあるけど)
「あるけど?」
(……この頃、ちょっと食べにくい)
食べにくい? ひょっとすると、歯や舌に何か問題があるのかもしれない。
「口を開けてみて」
モコちゃんが、あーんと口を開けてくれた。歯そのものには特に異常なかったが、歯に汚れがあり、歯茎が腫れていた。
「すみません。この子の歯磨きはしていますか?」
この質問には、御婦人が答えた。
「昔はしていましたけど、嫌がるようになったので、やめてしまいました」
「どうして嫌がるようになったのでしょう?」
「世話係りのメイドが変わったら、不器用な娘で、痛くしてしまったのです」
なるほど。歯磨きイコール痛いという記憶が、脳にこびりついてしまったようだ。
「歯磨きをやめたせいで、歯茎が腫れています。この子自身も、食べにくいと言っています」
「まあ、モコが?」
「はい。ですから、歯磨きを再開して下さい。でも嫌な記憶が残っているので、最初は優しく歯を触ったり、歯ブラシを見せたりして慣れさせてから、次に磨くステップに進んで下さい。嫌がったらすぐにやめて下さい。もし一本でも磨けたら、ご褒美をあげて下さい。焦らず、少しずつステップを進めることが大事です」
小型犬については、前にチワワを飼っていたことがあるので、経験からアドバイスができた。
モコちゃんについてはそれで終わり、次は時間を考慮して、二組の家族を同時に呼んでもらった。
二組の夫婦が、互いの愛犬を紹介し合っているときだった。
「おじさま、ちょっと」
客間、すなわち診察室の扉を開けて、ルナが男爵様を手招きした。
ルナが小声で何かを言うと、男爵様が私を振り返った。
「ヒルダ先生。来て下さい」
私は二組の夫婦に頭を下げて、扉のほうへ行った。
「問題が起きました。先ほどの夫婦が、受付での支払いを拒否したそうです」
それを聞いた瞬間、キリッと胃が痛んだ。
(やっぱり……わけのわからない小娘が、ペットと話したからといって、それにどうして金を払う必要があるのか理解できないのだろう)
「僕に任せて下さい。説得します」
気まずい思いをしたくなかった。もし払うのが嫌だったら、そういう人からはお金をいただかなくてもいいーーというのが正直な気持ちだったが、男爵様が険しい顔をしていたので、何も言えなかった。
「すみません」
大ホールに入るなり、男爵様は鋭い口調で言った。
「ここは病院です。ヒルダ先生は医者です。医者が患者を診た以上、こちらが決めた料金を払ってもらわねばなりません」
すると先ほどの御主人が、ひょいと肩をすくめた。
「これは閣下。興醒めなことを申される。うちのモコの心を読んでみせたのは、パーティーの余興のようなものでしょう? あれを医者の療法と一緒にするのは、いささか強弁がすぎます」
「余興などではありません。彼女にしかできない専門の仕事をしたのです。そこをはっきりさせるためにも、支払ってもらいます」
「いや、我々のあいだでそれは不粋でしょう。ではこうしましょう。今度、我が家でのパーティーにお二人を招待します。無論、そこではどのような余興が行なわれても、お代を頂戴などと恥知らずなことは申しませんのでご心配なく」
「医者のアドバイスは、薬と同じです。薬をもらいながら金を払おうとしない人間を、世間では盗っ人と呼びます」
「閣下。決闘なさるおつもりですか?」
「どうぞ、正当な対価を払ってお帰り下さい」
すると突然御主人が、懐から紙幣をつかみ出して床に叩きつけた。
「人をバカにするのもいいかげんにしろ! 金が欲しけりゃこれを拾え!」
「これでは多すぎますよ?」
しかし激怒した御主人は、お釣りを受け取ることなく憤然と「待合室」から出て行った。
「余分な金はルナとケンへのチップとしましょう。ではヒルダ先生、続きを」
◆◆◆◆◆
開業初日、仕事が終わったのは、午後六時過ぎだった。
終わってみれば、四時間で、三十五匹のワンちゃんとお話ししたことになる。
中には人見知りの子もいたので、質問に答えてもらえなかった場合もある。それでも、最後の方は慣れてきて、同時に六匹と会話することができた。
開業二日目も、多くの人が来てくれた。
その中で、ちょっと気になる出来事があった。
トイプードルと会話をしていたときに、その飼い主の夫婦が連れてきた幼い女の子が、
「わたしも、先生みたいになりたい」
と言ってくれたのだ。
「ありがとう」
嬉しくて、女の子に向かってそうお礼を言ったとき、母親の表情に気づいた。
実に、いやーな顔をしていた。
(そうか。この御婦人は、働く女性を蔑んでいるのだろう。だから、自分の娘が憧れを口にするのを聞いて、とても嫌な気持ちになったのだ)
貴族令嬢は、学校へ行って良い妻になるための教育を受け、社交場で良い相手を探し、良い結婚というゴールを目指す。このパターンは、おそらく永久に変わることはないだろう。貴族というものが存在するかぎり、ずっと。
でもそれは、そこまで気にならなかった。
それ以上に、仕事をすることの楽しさを感じていた。
充実感、満足感があった。
(金曜まで働いたら、土曜日には、男爵様と一緒に買い物に出掛けてみようかしら?)
ふと、週末に初デートをすることを思いついて、その日の夜にルナに相談してみると、
「絶対やって! やんなかったら、受付をやめるからね」
と脅された。
ルナが受付をボイコットしたら、H&H犬病院はたちまち立ち行かなくなる。それは一大事なので、男爵様にデートを申し出た。
「本当ですか!?」
男爵様は、花束を持って現れた初対面の日に、私が捨て犬になって拾われると宣言したときと同じように、喜びを全身で表して床を飛び跳ねた。
◆◆◆◆◆
生まれて初めてのデートを、私は楽しんだ。
(こんなみっともない犬令嬢を連れて、男爵様に恥をかかせている)
とは思わなかった。
いつの間にか、そんなことは気にならなくなっていた。
宝石屋でも、洋服の仕立て屋でも、食堂でも、リラックスして自然にふるまうことができた。
「男爵様」
「何ですか?」
「ううん、何でもない」
そんな、ほとんど意味のない会話でも、夢見心地になるくらいだった。
月曜から金曜まで犬医者として働いて、週末にデートを楽しむパターンが、しばらく続いた。
犬病院は繁盛した。噂を聞いた人たちが、珍しい物見たさでひっきりなしに訪れた。
また中には、飼い犬の不調に真剣に悩んで来院する人もいた。そういう場合は、錬金術師のガルム師から入手した薬草を処方した。これが不思議なほどよく効いた。
「先生、また来ましたよ」
リピーターもできた。そういう人たちは、愛犬に今日はこういうことを訊いてほしいと、リクエストを紙に書いて持ってきたりした。
「おや、先生。今日はデートですか?」
外出先で、声をかけられることも増えてきた。気がつくと、男爵様よりも、私のほうが人に知られるようになってきた。
(もう私は、犬顔を哀れまれる犬令嬢ではない。単なる男爵様のお飾りでもない。ヒルダ先生。つまり、自分の能力を活かして働く一人の女性として、人々に認知されるようになっている)
そう実感できたとき、
(男爵様のプロポーズを受け入れようか……)
その想いがぐんぐん強くなった。
が、しかし、
(でももう少し待とう。もっと犬医者として成長したい。もっともっと、人と犬の役に立ちたい!)
そっちの気持ちのほうが大きくて、結婚の二文字を口にすることはためらわれた。
そんなある日のことだった。
仕事を終えて、男爵様と夕食をいただいているときに、突然来客があった。
その日はたままた新月で、森は闇に包まれていた。
「おじさま」
食堂に入ってきたルナが、男爵様のそばに寄って耳打ちをした。
「ヘカテ様が?」
男爵様が目を大きく見開き、その目でチラッと私を見た。
私はびっくりした。
「え? ヘカテ様というのは、男爵様の故郷のニュームーン国の女王様ですよね。その使いが来たのですか?」
男爵様は返事をしなかった。
テーブルで、身体が固まってしまったように見えた。
「ヘルハウンド」
食堂の入口から声。
反射的に振り向く。
絶句した。
「今夜は新月ですよ。墓荒らしから墓を守るために出かけないのですか?」
深みのある声でそう言った女性は、身長が二メートルほどもあった。
頭に被った王冠も、床に裾を広げたロングコートも、まばゆい光を放っていた。
そして、黒目のない両の目までが、月のように蒼白く光っていた。
(……これが、ヘカテ様?)
そこで思考は止まった。
自分の見ているものが何なのか、よくわからない。
外国には、発光する王冠や服があるのか?
しかし目が光るというのは、いったいーー
「ヘルハウンド。今夜は話があって参りました。来なさい」
ふらりと立ち上がり、女王様に歩み寄っていく男爵様。
二人が扉の向こうに消えたとき、私は慌ててテーブルを立った。
「待って、お嬢様。ここにいて」
ルナが邪魔をした。私はルナを押した。
「どいて。男爵様が連れ去られちゃう」
「ううん、そんなことないから。落ち着いて」
「嘘言わないで! どきなさい!」
「ダメよ、お嬢様」
「どけと言ったらどいて! 私たち結婚するのよっ!」
ルナを突き飛ばして扉を開ける。
扉の外には、ケンが立っていた。
「行くな」
ケンは言った。
一瞬、その姿が、番犬のように見えた。
「どきなさい!」
思い切りケンを突き飛ばし、走った。
女王様の歩いたあとは、蒼白く光っている。
それを辿っていく。
一階から二階、二階から屋根裏部屋へと。
屋根裏部屋の入口の隙間から、蒼白い光が漏れていた。そこへ目を近づける。
二人はいた。
「ヘルハウンド。あなたから、人間の娘に恋をしたと打ち明けられたとき」
女王様がそう言った。
「私はあなたに、人間になることを許した。あなたが幸せになる権利を、奪ってはならないと考えたから」
男爵様が私に恋をして、人間になった……
それを聞いたとき、思い出した光景があった。
今日と同じ新月の夜、卒業パーティーからの帰り道。
馬車が十字路に差し掛かったときに、両目が炎のように赤く光った大きな黒犬がいて、それにジーッと見られたときのことをーー
「でもそれは、間違いでした。人間の娘に恋をしてはならなかったのです」
「どうしてですか!」
男爵様は、悲鳴のような声を上げた。
「どうかこのまま人間でいさせて下さい! 彼女と結婚させて下さい!」
「どうせ続かないとたかを括っていました。ところが、あなたたちは夢中になった。このまま突き進めば、あなたも人間も必ず不幸になりますよ」
「なぜです!?」
「あなたたちのあいだに子どもはできない。また神は、あなたたちが肉体的に結ばれることをお許しにならない」
「わかっています! わかっています!」
「人間の女が、それで幸せになりますか?」
私は一瞬、部屋に飛び込もうかと思った。そして、「はい、幸せになれます」と宣言しようかと。
しかし女王様は続けて、
「それだけではありません。ヘルハウンド、あなたは歳をとらない。人間の女が老けていくのに、あなたは若々しいまま。それでも幸せになれますか?」
私はハッとした。
私は歳をとる。
男爵様はとらない。
私はおばさんになり、おばあちゃんになる。
男爵様は青年のまま。
それで私と男爵様は、幸せでいられるかーー?
「いいですか、ヘルハウンド。人間の女は、いつか必ず死ぬ。あなたは神に滅ぼされないかぎり死なない。あの女が衰えて死んでいくのを見て、あなたはその哀しみに、耐えることができますか?」
男爵様が慟哭した。
私は屋根裏部屋の入口から顔を離した。
そして、急いで書庫へと向かった。
書庫には、犬に関する書籍や文献が大量に収まっている。
犬病院を始めるときに、私の仕事に役立つようにと、男爵様が購入して下さったのだ。
(黒犬について調べたら、何かわかるかも……)
それは、ほどなくして見つかった。
百科事典にこう載っていた。
【ブラックドッグ 】
黒い犬の姿をした不吉な妖精のこと。ヘルハウンドとも。
炎のような赤い目に、黒い体の大きな犬の姿をしている。夜中に十字路に現れることが多い。
新月の女神ヘカテの従者。彼女に従属するブラックドッグたちは、死の先触れや死刑の執行者として人々に忌避されている。
ただし墓守犬としてのブラックドッグは、墓地を墓荒らしから守る以外に、人を害することはない。道に迷った子供を助けたりするなど、基本的に温和であるーー
「見ましたね」
書庫の入口を振り返る。
男爵様が立っていた。
私はそちらへ行った。
「男爵様、ヘカテ様は?」
「帰られました。場所は、おわかりですか?」
真っ直ぐに手を挙げ、天井を指差した。
「そう。月の裏側です。私もそこから来ました。ニュームーン国などと言って、あなたを欺いてしまってすみません」
「いいのです、男爵様」
「ルナは猫の姿をした妖精、ケンは子犬の姿をした妖精でした。いずれも、ヘカテ様の従者です」
「ルナとケンは、どうして人間に?」
「僕が人間になることを知って、彼らもそれを望んだのです。一種の冒険心ですね」
男爵様は、ふっと笑ったあと、ひどく悲しげな目をした。
「僕は、自分の気持ちばかり考えて、おかしな冒険をしてしまいました。その結果、あなたを傷つけることになった」
「どうして? 私は幸せですよ?」
「しかし僕は、あなたに子供を抱かせてあげることもできないし、一緒に歳をとることもーー」
「それがどうしたというのです?」
私は男爵様の手をとった。
初めて握る男爵様の手。
それは、とても柔らかく、優しくて純粋な心が伝わってきた。
「男爵様に出会わなければ、私は人生に絶望したままだったでしょう。男爵様は、私に生きる理由と目的を下さったのです。男爵様、プロポーズを、喜んで受け入れます」
男爵様の胸に飛び込んだとき、後ろのほうで、ルナとケンがわっという声がした。
あの二人、覗いてたのね。
◆◆◆◆◆
結婚式は、翌週の週末に挙げた。
場所は「新月館」、またの名を「黒犬館」、または「H&H犬病院」。
参列者はルナとケン。ニューファンドランドのチョコ。そして森の狼たち。
みんなでイノシシ料理をおいしくいただいた。幸せいっぱいの最高の結婚式!!
新婚旅行は、常夏の島へ。
すらりとした美形の男爵様と、寸胴で究極の犬顔の私が手をつないで街道を歩いていると、人々はくすくす笑った。
でも全然気にならない。
超幸せだから。
男爵様がビーチに登場すると、どよめきが起きた。
全身毛むくじゃらだからである。
その男爵様が、海に入って見事な犬かきを見せると、人々は指差してひそひそした。
でも全然気にならない。
超幸せだから。
海から上がった男爵様の背中に、私はまたがった。
男爵様は嬉しそうに、私を乗せて、四つ足でビーチを駆け巡った。
人々は悲鳴を上げて、身をすくめて私たちをよけた。
でも全然気にならない。
超幸せだから。
新婚旅行から帰ると、私はバリバリ働いた。
そのうち外国からもお客様が来た。
どうやら私は、国際的にも有名になったようである。
犬語のわかる世界で唯一の犬医者として。
その生活がおよそ三年続いたあとーー
私と男爵様は、王室に招待された。
◆◆◆◆◆
王室ではポメラニアンを飼っていて、特に第二王子は、犬をこよなく愛していた。
「ヒルダさんのご活動のことは、以前より、大変興味深く思っておりました」
たくさんの名士たちが招かれた晩餐会の席上で、第二王子から直々にそう言われたときは、思わぬ成り行きに顔が真っ赤になった。
「人間には医者が必要です。そして、ペットにも医者が必要なことを、ヒルダさんの活動によって我々は初めて認識させられました。そこで我が国では、あなたの後継者を育てるべく、学校を設立することに決定しました」
驚きに、はしたなくも、口をあんぐり開けてしまった。
「犬や猫だけではなく、家畜である馬や牛についても研究し、病気による死をできるだけ少なくしたいと思っています。つきましては、ぜひヒルダさんのお力をお借りしたいと」
「そんな」
テーブルの下で男爵様の手をギュッと握りながら、私は消え入りそうな声で言った。
「私は、ほんのちょっと犬の言葉がわかるだけで、病気による死を少なくするなんてとても……」
「心配なさらず。病気の研究は専門家がします。ヒルダさんには、動物と心を通わせることの重要性について、週に一度だけ授業をしてもらいたいのです。これからの医療は、もっと心に目を向ける必要があります。それを人々に教えられるのは、ヒルダさんしかいません」
第二王子の熱意がひしひしと伝わってきた。
私はその熱意に感動し、自信はないままに、「はい」と返事をした。
それからは、もっと忙しくなった。
犬医者の仕事のほかに、授業の準備。
しばらくすると、学生たちが実習生として、H&H犬病院にやってくるようになった。
私も、後継者を育てる必要性を痛感していた。だから、必死になって学生を教えた。
「先生、私、この子の言葉が少しわかりました!」
ラブラドールレトリバーの首を抱いて、目に涙を浮かべて女学生がそう言ったときは、嬉しくてもらい泣きした。
「それはあなたの心が純粋だからよ。その心、決して忘れないでね」
学生たちの中に、貴族の子息や令嬢はいなかった。全員が平民ーー農家や商人の家の子ばかりだった。
まだまだ貴族が俗世で働く、しかも動物相手の仕事をするなどということは、「常識」が許さなかった。
時間は矢のように過ぎた。
五年、十年、二十年……
「ねえ、ヒルダ先生」
ある日、常連で通ってきている貴族の御婦人が、小声で私に訊いてきた。
「受付の子、昔から、ずっと同じ子?」
「ルナ? そうですよ」
「だとしたら、もう三十半ばになるわよねえ。それなのに少女のままみたい。童顔で羨ましいけど……」
その晩、私たちは相談して、男爵様とルナとケンに少しずつ老け顔メイクをしてもらうことに決めた。
でないと、昔から私たちを知っている人には奇異に思われ、知らない人から見たら、私が男爵様の母親か何かに見られてしまうからである。
あるとき鏡を見ていると、後ろに男爵様が立っていることに気づいた。
「ねえ、あなた」
私は鏡に映った男爵様に言った。
「あなたの歳、いくつだっけ?」
「二十七」
思わず噴き出した。
「嫌ねえ。私は五十歳になったのに。いよいよ息子みたいになっちゃったわ」
「でもヒルダは、出会った日から、心は少しも老けてませんよ。僕は心しか見ないから、ヒルダは十八歳のままです」
嬉しかった。確かに顔にしわはできたし、白髪も増えたし、身体は疲れやすくなったし、腰や膝が痛くなったりした。
でも、そんなことに目をつぶれば、私の心は男爵様の言うとおり、あの日のままだった。
捨て犬になって、未知なる男爵様に拾われた、あの十八歳の日のまま。
「ねえ、森の散歩をしない? メイプルの紅葉を眺めたいわ」
「いいですとも」
私たちは手を繋いで森を歩いた。そのうち、新婚旅行の昔に帰って、私は男爵様の背中にまたがり、男爵様は私を乗せて四つ足で森を走り回った。
◆◆◆◆◆
七十歳のとき、家の中で転んで、太ももの骨を折った。
新月館に医者を呼んで治療してもらったが、うまく回復せず、車椅子生活を余儀なくされた。
無念だったが、五十年以上続けてきたH&H犬病院を、閉院することに決めた。
「でもいいの。おかげさまで、弟子がたくさん育って、犬病院が十五箇所もできたから」
五十年前では考えられなかったが、今ではペットの犬を病院に連れていくことは、ごく当たり前のことになった。
私は安心して犬医者を引退した。
それでも、常連のお客さんや百人を超える弟子たちが、見舞いと称して、連日私を冷やかしに代わる代わる屋敷を訪れた。
「先生、また元気になって、うちの子が何を言ってるのか教えて下さいよ。まだまだおできになるでしょう?」
「冗談ばっかり。こんなおばあちゃんじゃなくて、若い先生に診てもらいなさい」
そんなふうにすげなくするのだが、客は少しも減らない。ルナはそれを見て、
「ヒルダ先生、愛されてるねー」
とからかう。私はルナをぶつ真似をする。するとルナがイーッとする。私も負けずにイーッとする。
ある朝、私はルナに頼んで、スモークサウナに連れて行ってもらった。
「ケン、一緒に入ろう」
そう言うと、ケンは顔を赤くした。
「バカな子ねえ。こんなおばあちゃんに照れるんじゃないわよ」
サウナの横にケンを座らせて、頭を撫で撫でしてやると、ケンは目をつぶって縮こまってしまった。
◆◆◆◆◆
八十三歳の秋、風邪をひいたら肺炎になり、ベッドから起きられなくなった。
男爵様とルナとケンが、二十四時つきっきりで看病してくれた。
「男爵様」
優しい男爵様の顔を、下から見上げながら言う。
「長年お世話になりました。そろそろ迎えが来たようです」
するとケンが、肩を震わせてしゃくり上げた。
「泣くんじゃない、バカっ!」
ルナがケンを叩いた。が、そのうちルナも、声を上げて泣き始めた。
「ヒルダ」
男爵様の手が、私の髪を慈しむように撫でる。
「あなたのやってきたことは、歴史に残る。なぜならヒルダは、世界の常識を変えたのだから」
「あなたのおかげよ、男爵様」
男爵様は、家では老け顔メイクをやめているので、二十七歳の若々しい青年の姿でいる。
「不思議ねえ」
私は心から言った。
「男爵様も、ルナも、ケンも、昔の姿のままだから、少しも時間が経った気がしない。六十五年間が、まるで一夜の夢みたいに感じる」
私自身は、十八歳から八十三歳になった。だから、時間は確実に流れている。
でも、こうしてベッドに横になっていると、新月館に来てからの六十五年が、淡雪のように手の中で消えてしまったと感じるのだ。
(不思議。本当に不思議。思い出すことといえば、あの日のことばかり。男爵様に初めて会って、家族と縁を切り、馬車でお屋敷に来て、一緒にイノシシ料理を食べたあの日ーー目を閉じれば、すぐにあの日に帰る。だから私の心は、いつまでも、尻尾を振らない捨て犬令嬢のまま……)
「ヒルダ、ごめんなさい」
男爵様が頭を下げた。
「僕、自分の姿に戻っていいですか?」
ルナとケンの息を呑む音がした。
私は微笑んだ。
「ええ。ぜひそうして。あなたを見たいわ、ヘルハウンド」
男爵様の姿がぼやけ、見る見るうちに、炎のような赤い目をした大きな黒犬に変身した。
「まあ、可愛い。こっちへおいで、ヘルハウンドちゃん」
黒犬が、私の胸に頭を載せた。
その口から、はあはあという荒い息が洩れる。
(あら、かわいそうに。痛みが伝わってくる。哀しみで、心が引き裂かれそうになっている……)
「ごめんなさいね、ヘルハウンドちゃん。犬を置いて、人間が先に死んじゃいけないわよね。心細いわよね。ごめんね、ごめんね」
はあはあと荒い息。やがて、赤い両目から、涙が溢れ出した。
「困ったわ。どうしましょう。私、犬医者なのに、犬がこんなに涙を流すなんて知らなかった。かわいそうに、かわいそうに」
黒犬の身体を抱いてやると、こちらの胸が潰れそうな、悲痛な遠吠えをした。
(遠吠えは、大好きな人が離れていくときに、不安や寂しさからすることがあるの。だから、可愛いワンちゃんを置いて、何日も旅行に出かけたりしてはダメよ)
そんなことを人に教えておきながら、私は先生失格だ。
「ごめんなさい。もう行く時がきたみたい。ありがとう。楽しかった。幸せだったわ」
黒犬の熱い涙に濡れながら、私は目を閉じ、またしてもあの日のことを夢に見た。
《了》