吾輩は、トカトントン
吾輩は猫という身分に生まれ、ある豪雨の過ぎ去った街中をヨタヨタと歩き、腹を空かせながらニャーニャーと泣いていたあの日のことを切に感謝している。
真夏の月夜はアスファルトの水溜りを宝石のように照らして、未だに強い風は、試練に耐え抜いた木々の枝を賞賛しながらも我が道を貫き通していた。
あてもなく彷徨い、はじめて目にする垣根の側を通り過ぎた時、吾輩に近付いてくる青年と、惜しげも無く肌を露わにさせた若い女と出くわした。
これが運命の出会いであった。
二人とも傘は持たず、全身はびしょ濡れではあるものの、吾輩からしたらそれは当然の成り行きである。
荷物を持ち歩く面倒を、何故人という身分の者達は好むのだろうか。
人について考えるとキリがないのは承知はしているが、この世に生を受けてからの二年間。吾輩の周りは人で溢れているのだから致し方ない。
二人は笑顔で吾輩の頭を撫で、身体を撫で、顎の下を撫でながら甘ったるい声を出している。
そう、身分が違う相手。
特に猫を目の前にした際の、人の変化は可笑しくもあり滑稽でもあった。
人でありながら猫なで声で本家の猫に迫って来るのだから、吾輩はいつもニャーニャーと笑ってしまうのだ。これは止めようがない。
青年はかなりの二枚目で、ツンと尖った高い鼻が印象的だった。異国からの使者と吾輩はあだ名をつけた。
女はこれまた美人で、スラリと伸びた長い足としなやかな指先。そして厚い唇からのぞく白い歯がとても美しく、べっぴんさんなる呼称は申し訳ない気もしたが他に候補は見つからなかった。
吾輩の腹は先程からぐうと音をたてている。
しかし、御構い無しに吾輩の身体を触り続ける二人は相変わらずの猫なで声。
無駄な時間という人生悪に耐え切れなくなった吾輩は、この場から立ち去ろうと後ろ足に重心をかけた。その時だった。
頭の中で奇妙な音がした。
トカトントン。
人生悪とか身分とか、もうどうでも良くなってしまった。
ひょいと青年に持ち上げられて、吾輩と人との共同生活が始まった瞬間から、空腹という概念はなくなっていった。
3年目。
『ひとつだけ教えて欲しいのです。実はある奇妙な症状のせいで、吾輩はたいそう困っているのです。それは、時折頭の中で聞こえる音についてなのですが、うまく形容するならば鐘の音、或いは金槌で鉄板を叩く様な音。
双方、情緒的には異なるモノとは思うのですが、兎にも角にも頭の中で鳴り響くトカトントンという音がする度に、吾輩のそれまでの心情は無となってしまうのです。
吾輩は何かの流行病なのでしょうか?』
夜中の集会に顔を出すのも久方振りではあったが、吾輩は土管の頂上に鎮座する神猫爺に向かって悩みを打ち明けた。
神猫爺の脇には、可愛い白猫の雪の嬢 ー これまた吾輩が付けたあだ名なのだが ー がちょこんと丸くなって顔を舐めている。
吾輩は密かに雪の嬢に恋心を抱いていた。
神猫爺は、吾輩を一瞥して大きな欠伸をしながらぼそりぼそりと話し始める。もはや集会場には吾輩しか残っていなかった。
『人に飼われた者達の典型的な病。くだらぬ事に精を尽くし、悩まなくても良い事に頭を使い、気を使い、労力をかける。いいですか? 解決法はひとつだけ。よく覚えておきなさい』
吾輩は尻尾をぶんぶん振りながら次の言葉を待っていた。神猫爺で医者いらずとは良く言ったものだ。
それにしても、雪の嬢はなんと可愛らしいのだろう。吾輩の尻尾を見つめる色違いの美しい瞳はキラキラと輝き、桃色の鼻頭と肉球の淡い紅色はエロティックでありながらも優しい。
『解決策は、悩みは早目に忘れなさい』
神猫爺の言葉に、吾輩はますます混乱してしまった。悩むから忘れられないのではなかろうか?
簡単に忘れられる事柄など、悩みのうちには入らないのではなかろうか?
吾輩は顔を無我夢中で舐めた。
すると、雪の嬢が吾輩目掛けて飛んで来て、尻尾にかぶりと噛み付いた。
驚いた吾輩が身を交わすと、目の前に雪の嬢の白くて長い尻尾が踊っているのが見えた。本能だろうか、吾輩はそれを追いかけずにはいられなかった。
雪の嬢も楽しげに吾輩の尻尾を追いかけてくれている。
土管の上で神猫爺が笑っていた。
ぼんやりとした幸せに吾輩は包まれていた。
朝靄はなんと神々しいのだらう。
街中にボカンど口を開けた空き地の草花を照らす陽光。人が創り上げた、高い高い遠くのビルディングをすっぽりと包む霧山さえも美しい。
新聞配達のバイクは、、忙しないブレーキ音を響かせている。
散々じゃれあった吾輩と雪の嬢は、いつの間にか土管の中で眠ってしまっていた。
雀とオナガとカラス達が縄張り争いを始めている。
鳩の群れは、飛べば良いのにヒョコヒョコと歩き回り。その姿はまるで踊り子の様だった。
吾輩が目を覚ますと、雪の嬢もパチリと大きな瞳を輝かせた。
『お家へ帰るんでしょ?』
雪の嬢の問いに吾輩は耳を震わせて頷いた。
『つまらない事は忘れなさいな。それがあたし達の特権なのよ。人になっちゃ駄目。また集会で会えるのを楽しみにしてるからね』
そよ風が雪の嬢の長いヒゲを揺らす。
気品のある白いヒゲを眺めながら吾輩はふと思った。もしや、雪の嬢は飼い猫だったのではないかと。
4年目。
人というのは実に面倒で、その生涯は滑稽でありながらも何処かしら儚い。
吾輩が居候をしている、異国からの使者の家で目の当たりにする日常が教えてくれた。
街外れの風俗街の一角で、ちいさな小料理屋を営む異国からの使者は 〈と言っても、女将は彼の母親で、常連客からは『おけいちゃん』と親しまれていた 〉週末に店を手伝いに来ては小遣いを貰っていた。
彼曰く、正当に働いた賃金であって親から金をせびってはいないと言ってはいるが、その言葉を信じる者はいなかった。
べっぴんさんともとうに別れて、今では二つ三つ年上の銀行員の女性と付き合っているらしく、妹の加代ちゃんの印象ではかなりの美人で素養があると評判のようだ。
吾輩からしたら、朝晩と小料理屋の手伝いをしている加代ちゃんの方が余程しっかり者に見えるのだが、人というのはどうも見かけに囚われやすい。
事実、加代ちゃんは美人とは言えないが、八重歯も三つ編みもそばかすも、捉えようによっては可愛らしく見える。つまりは童顔なのである。
吾輩は店の看板猫として、店奥カウンター席の一段と高いスツールの上で丸まってさえいれば美味い煮しめや唐揚げにありつく事が出来た。
常連客で風俗嬢のよしみちゃんは、吾輩をとても気に入ってくれて、これまでに何枚も写真を撮っては子供のようにはしゃいでいた。
加代ちゃんのコロッケと、おけいちゃんの唐揚げは店の人気メニューで、それを目当てにその筋の若頭も常連客となっていた。
若頭は座敷の隅でいつも静かに酒を呑んで、最後に必ず吾輩の頭を軽く小突いて帰って行った。
独り身のおけいちゃんに気があるようにも思えたが、誰もその事には触れなかった。
小料理屋の二階は住居となっていて、吾輩は気兼ねなく店の中と二階とを行き来出来た。
加代ちゃんの部屋で眠る事の多い吾輩の身体には、甘い香水の香りが染み付いてしまっている。致し方無い。居候の身なのだからー。
夜の集会へはあまり行かなくなっていた。
その代わり、雪の嬢が小料理屋の前まで来ると、吾輩は裏口からそっと抜け出しては玉川上水の遊歩道を連れ立って散歩した。
春は蝶々を追っ掛けて。
夏には気絶した蝉に驚かされて。
秋になると旋風に挑み。
冬になると雪の足跡を見ながら笑った。
雪の嬢と吾輩は、互いに毛繕いをし合う仲になっていた。
5年目。
異国からの使者は、銀行員の女性と共に北欧へと旅立ってしまった。定住するつもりなのか、はたまた単なる気紛れ旅行かは定かではないが、何でも女性の方から積極的に促されての決断だったらしい。
反対する者はなく、己の人生は自己責任で切り開いていくものだと皆言っていた。
最期の日、異国からの使者は小料理屋の客として、酒や煮しめをたらふく平らげて出て行った。
おけいちゃんはせめてもの餞別にと、出来の悪い息子に数万円の金を渡していた。
人はまるで、金を集めるための生き物みたいだと、吾輩は雪の嬢に言った事がある。
雪の嬢はそんな事にはまるで興味を示さずに、丁寧に毛繕いをしていた。
バツが悪くなった吾輩も、同じように毛繕いをしてその場をやり過ごした。
その日から数日後。
朝方、小料理屋の前で雪の嬢はタクシーにはねられて死んだ。
吾輩は加代ちゃんの部屋の窓からその一部始終を目撃していた。
鈍い音に目覚めたおけいちゃんは、道路に横たわる雪の嬢を段ボールの棺に入れて泣いてくれた。
加代ちゃんは火葬場の手配をしてくれた。
車から降りて来た、見知らぬ若い男に棺が渡されるのを見て、吾輩は思い切り泣いた。
でも人はわかってはくれなかった。
吾輩の頭を撫で、顎を撫でるばかりで、吾輩の気持ちはわかってはくれないでいた。
所詮身分が違うのだ。どうせ分かり合えるはずも無い。そんな事は承知していた筈なのに、吾輩は兎にも角にも悔しくて悲しくて泣いた。
撫でて欲しいわけじゃない。
その棺の中の雪の嬢に最期に触れたかった。
そんなたったひとつの願いさえも届かぬ煩わしさに、吾輩は毛を逆立てて店の中を走り回っていた。
その時、またあの音が鳴った。
トカトントン。
途端にどうでも良くなってしまった。
人になってはならない。
雪の嬢に言葉を思い出した。
でも、もうどうでも良いのだ。
彼女はもういないのだから。
6年目。
雪の嬢はもういない。
その事実に、無感情な毎日を高いスツールの上で過ごす吾輩の感覚は、次第に麻痺し続けていった。
人になってはいけない。
そうなのだ。
我々とは身分の異なるいわば『異端』である中に身を置いて、得体の知れない心根や雑念をどう振り払おうとしても、吾輩の存在は産まれた時から決まっている。それが運命なのだと、この頃から思うようになった。
それに、人になどなりたくもない。
全ての者に平等に与えられた時間を、人は何故無駄に不幸に使ってしまうのだろう。
自ら命を絶つ行為も、命をかけて嫌々闘う行動も吾輩には理解しがたい出来事に思え、その事を考えると無性に虚無感がどっと押し寄せては、不思議とあっという間に過ぎ去ってしまう。
トカトントン。
あの音は聞こえなくなっていた。
風俗嬢のよしみちゃんは、自室で大量の睡眠薬を飲んでこの世からいなくなってしまった。
今頃は、雪の嬢のいる世界で幸せに暮らしているのだろうか?
若頭は大怪我を負って入院して、その後にお巡りさんに連れていかれてしまった。
もう二度と、小料理屋には来れないらしいと加代ちゃんとおけいちゃんは話していた。
異国からの使者は銀行員の女性とは別れ、今は東京で小説を書いているらしい。新たな女性に食わせてもらいながら。
吾輩は今日も明日も明後日も、この高いスツールの上で時間を浪費するためだけに生きている。
人に愛撫されるだけの生きる屍のように。
人になってはいけない。
そんな事を考えながら。
晩年のこころ。
肉体や精神というのは年月をかけて衰退し、蓄積された自我の底なし沼に埋没してゆく。
異国からの使者が地方新聞の小説欄に投稿した『さらば愛しき私』の一文は、彼にとっては遺作となり、その強烈な文面は遺言のようでもあった。
加代ちゃんは結婚して子供を授かり、調布の飛行場の近くの一軒家で家族と暮らしている。
おけいちゃんは息子の死後、気丈に振舞いながら小料理屋をきりもみしていた。
常連客と笑ってカラオケを披露したり、新たな店のメニューにカレーライスを追加してはからかわれたりもした。
小料理屋にカレーなんて、洋食屋じゃあるまいし等々。
しかし吾輩は知っていた。
カレーライスは異国からの使者の大好物だったのだ。だから仕込みの際はおけいちゃんは毎回泣いていた。
女と酒と、借金と煙草にまみれた息子の生涯は、肺癌という病によって幕を下ろしたのだが、想い出が周りの人々を不幸にしているのではないか。ならばひとりぼっちで生きていく選択があっても良いではないか。
吾輩はそんな事を考えるようになっていた。
元来、群れで行動する身分ではないのだから。
おけいちゃんは、吾輩を溺愛するようになった。
常に膝の上に乗せられ、頭や顎を撫でられては色んなことを話しかけられる。
吾輩は『ニャーニャー』言うだけで、意思疎通は出来ないでいた。それがもどかしくて悔しかった。
人という存在は脆い。
人はつまらない事に振り回されながら生涯を終える。意地、プライド、他者との関係性、金、異性、見栄、外見。
愛や情けを叫びながら、遠くの『死』は空言で、近くの『死』にうろたえながらも何故だか力強さを発揮する。
吾輩がよく耳にする言葉は、実に合理的であると思う。
人であるが為に生まれた響きには、仲間意識と孤独な心根が混ざり合っている。
『人それぞれだから』
吾輩はその言葉が大好きだった。
グッドバイ。
衰弱の果てに墜落する様を所々で垣間見た。
生きるもの全てに平等に与えられた時間は、人からすれば無意味で空虚な概念なのかも知れない。
ならば何故、人は生き抜いて行こうともがくのだろう。
働いて眠るだけの生涯。
毎日毎日同じ事の繰り返し。
産まれた時もひとりぼっち
死ぬ時だってひとりぼっち。
既に老猫と呼ばれる様になった吾輩の頭の中は、人という摩訶不思議な存在の疑問で膨れあがっていた。そんな時、おけいちゃんは体調を崩して入院する事になった。
女手一つで長年続けた小料理屋は、都市開発の名の下に安値で買い叩かれ、吾輩は加代ちゃん家族に引き取られる事になってはいたのだが ー どうにも居心地がよろしくなく吾輩は脱走してしまった。
加代ちゃん夫婦の娘との相性と、匂いに馴染めないのが決定的な理由ではあるが、晩年になってからの風来坊も悪くないと頭の片隅に思い描いていたのが功を奏して、己自身で勇気ある決断を下すことが出来たのである。
残り少ない生涯を、思い切り好きな様に生きてみよう。それこそが有意義な時間なのだ。
吾輩は意気揚々と、朝陽に照らされた冷たいアスファルトの上を歩き始めていた。
放浪の旅を始めて数ヶ月が過ぎ、季節は吾輩が好なく愛する春へと移り変わり、桜の花びらの絨毯は、時折の強い風にその模様を変化させていた。
ふと思い出す事がある。
しかし、すぐに忘れようとも努力する。
空き地の土管。真夜中の集会。ガシャガシャブンブン。加代ちゃん。おけいちゃん。異国からの使者。
それに雪の嬢。
腹が減っているから無駄な思い出が蘇るのだろうか。そう。風来坊になってからというもの、毎日毎日吾輩は腹を空かせている。
餌の取り方など忘れてしまった。
喧嘩や威嚇の仕方もわからなかった。
本能はいつの間にか無能の長物となり、生きる術を見失った吾輩は、もはや『猫』ではなくなっていた。恐ろしい事だが、気付くのがちょっと遅かった様だ。
孤独に勝てずに、幾度もあの家族の元に帰ろうと考えた。
しかし、吾輩の見栄やプライドがそれを許さなかった。
可笑しな話だ。
吾輩は猫である。
それなのに、ことさら見てくれを気にしているのだから。
ある夜、玉川上水をふらふらと歩いていると、穏やかな水面にまんまるのお月様が浮かんでいた。
吾輩はオンボロの橋の上からそれを見つめていた。
胸が熱くなった。
思い切り 『ニャーニャー』と泣いてみた。
随分昔に、雪の嬢から言われた言葉がずっと気になっていた。
『人になってはいけないよ』
その意味を理解しようともがく程に、吾輩は辛くなり悲しくなっていった。
水面に雪の嬢の愛らしい姿が浮かぶ。
長い長い尻尾がゆらゆら揺れている。
まるで吾輩を呼んでいるかのようだ。
『トカトントン』
久方振りにその音が頭の中で鳴った。
不快な感じでは無い。まるで教会の賛美歌の様な響きだ。
『トカトントン』
どうでもよくなっていた。
見栄、嫉妬、恨み、喜び、愛、見てくれ、プライド、哀しみ。
全てにさよならを告げた。
橋の上からそっと身を乗り出した時、一瞬だがこんなことも考えた。
『もし、また新たな生涯があるのなら、無駄な時間に狂いながら生きてみたいー
未完。