3メートルはある黒い影。そう、俺だ
小鳥の囀りが心地よくこだまして、爽やかな風が草木を揺らす。辺りの生き物の駆ける音、川の流れる音。
正に山紫水明という言葉が似合う山で、微睡みの中目を開ける。
自分の鼻に止まっていたのだろう。一羽の蝶がひらひらと舞った。
「あ?」
どこだ、ここ?
見覚えの無い景色だった。
暖かくも焦がすように熱い訳でも無い太陽に、草木が新たな季節を祝福するかのように、新芽を出していた。
春。この居心地良さには覚えがあった。
俺が四季の中で最も好きな季節だ。俺は昔から寒いのが苦手で、炬燵の中で自宅の飼い猫、ナーブと一緒に丸くなって何度も夜を明かした仲だ。真冬はいつだって俺の人としての尊厳を無くす季節。猫と変わりない。丸くなって飯食って寝ていたかった。
それでも生きていく上では働かなくてはいけなくて。毎日朝6時には起きて歯を磨き、買ってきたお惣菜のパンをかじっては、社会人らしくスーツを着て満員電車の中に埋もれた、ただのどこにでもいる一社会人ってやつだ。
毎朝見送りをしてくれるナーブをみて、そのもふもふの毛皮の少しでも分けてくれれば温かいんかねと羨ましげに寒い中でも出社した。
そういえばこんなのんびりした朝はいつぶりか。
社畜、なんて言葉があるがあんまり好きな言葉ではない。俺は自分のしている仕事に少しばかりだが誇りがあったし、そのルーティンも嫌いではなかった。
ただ要領ってのが悪かったのかね。土曜でも日曜でも1週間毎日出社していた。休日なんてなかった。毎日朝8時には仕事が始まり、終電ギリギリまで仕事をしていた。
仕方がない。中間管理職なんてそんなもんだろ。だからこそこんなのんびりとした朝なんてのはいつぶりだったのか。覚えてもない。
不思議とルーティンであるはずの出社準備をする素振りもない自分に疑問すら覚えず、能天気に
のんびりとした朝なんていつぶりか、腹が減ったなーなんて考える。朝というにはお昼よりの時間だろう。腹の虫が餌を求めて動けと言っている。
なに?エサ?
普通にご飯だろう。なんだエサってまるで獣や鳥じゃあるまいし、俺は立派な人間だ。
固まった身体を動かして立ち上がった。ゴゴゴという地響きを鳴らせて。
おいおい成長期か?随分視線が高くなってやがる。
一番近くにあった木と目線が一緒だ。足元を見れば3メートルはあるんじゃねーかという高さ。
ていうか毛深くなったな。脱毛も社会人の身嗜みだろうに。
自分の心の弛みを忸怩る。見た目の弛みは心の弛み。なんともまあ生活感がなくなったようで。
二足歩行ってこんな違和感あったか?という疑問を浮かべながらも山を降りた。
おぼつかない足取りは小河へと進み、まるでこれが俺のルーティンだと言うように何変わらぬ毎日のように、その場へ辿りついた。そしてその小河で顔を洗おうと水面を見て、違和感に気づく。
これ、熊じゃねぇか。
おいおいおい。いつから俺はこんな熊フェイスになっちまったよ。頭に二つ耳がキューティーに生えてやがる。ついでに手を見れば大きな力士より太い掌。力を入れれば人一人串刺しに出来てしまうような爪もある。尻をみたらまん丸のカワイイお団子なんてつけちまって、
いや俺熊じゃねぇかぁ!?
落ち着け。俺は立派な社会人。俺のルーティンを思い出せ。
毎朝昼前に起きて小河へ降り魚を取り、人間が間違えて縄張りにやってこないように木々に爪で印を残しては、木の実を拾ったり美味そーな小動物ちゃんのぐちゃぐちゃにして食べる、そんな日常を、、、
ってちがーう!!
これじゃ本当に熊じゃねーか!
そら歩くのも違和感あるわ!熊は二足歩行しねーもんな!
落ち着け。本当にどうした。これじゃあ本当に野獣そのもの。
ぐぎゅるる〜。見た目とは随分相入れぬ腹の虫が鳴った。
その後、小河を泳ぐ魚を難なく一発で打ち上げ、ピチピチと地を叩く獲物に食らいついた。
感想を述べるなら、非常に美味でした。やっぱ新鮮が一番だねー。
さて、これからどうしたものか。
なんか知らんが俺はいつも間にか熊になっちまったみたいだし。受け入れることにした。
なんでそんな飲み込みが早いかって?そらお前泳ぐ魚を巧みに捕まえて、生の魚に躊躇なく食らいつける行動が身体に染み付いちまってる。この迷いない動きをしてたら嫌でも熊だと認めるしかないだろう。
普通なら生魚にかぶりつこうなんて思わないし、寄生虫とか本気で怖い。だが身体がそんな心配をしてないのだ。
現状を考えるに、これは憑依だとか異世界転生とかいう部類ではないだろうか。
新入社員の歓迎会とかで趣味はなんだと聞いたらライトノベルです。なんて答えるもんだからどういうものか聞いたら、異世界に転生した主人公が特殊な力や武器を得て、美少女とイチャイチャしながら冒険していく物語だと聞いた。
人生舐めてるのか。俺を見てみろ。転生は転生でも熊だぜ?熊。特殊な力なんてなんも無さそうだし、美少女なんてこんな山じゃ影すら見えない。せいぜい居るのはぴょんぴょん跳ねるカワイイうさちゃんだ。
まあ誰だって憧れると思うぜ?特殊な力とか特別な何かってのはさ。俺だって学生の頃には憧れたよ。でも社会に出たらそういうのは何にもない。ただ身を粉にして働くのだ。生きる為に。
そういえば俺は最後まで出会いなんてものはなかったものだ。付き合った女性も学生の頃が最後だ。社会人になると女なんてのはあくまで仕事上の関係だし、新入社員の女の子たちには最初の教育して後は下の後輩どもに投げておさらばだ。
さて、それにしても神さまってやつはなんで俺を熊なんかにしたのかね。なんならイケメンにして仕事のできるナイスガイにでもしてほしかった。
飯を食って膨れた腹を撫でながら空を見る。これは一雨来そうだ。
そういえば熊って雨にはどう対処するんだ?中身も熊に侵食されてはいるが、まだ人間としての尊厳は失っていない、と思いたい俺は雨に打たれるなんてまっぴらだが。
そうこう思っている間に雲行きはどんどん怪しくなってくる。どうせやる事もないし、俺は頭に浮かんだ閃きを実行することにした。
熊です。今木を薙ぎ倒しています。
まさか出来るかなーって思っていたらちょっと強くぶつかっただけで木がドミノみてーに倒れるんだからおもしれーのなんの。自然破壊ってのはよくないだがね。良い子は真似しちゃダメだゾ。
そうこう行ってる間に10本くらいは倒してしまった。ぴぴぴと鳴いて去っていく鳥さん。すまないね、驚かせろう。
俺が今日することはたった一つ。家を作ることにした。
やる事もないし、この先家があった方が便利だろうと思い立った行動だ。ちなみに建築経験はない。昔見てたテレビでアイドルたちが村なり島なり作るのを参考にしている。
倒した木を集めて、とりあえずログハウス状にしてみようかと思う。そう思うと10本じゃ到底足りないが、まずはどれくらいできるかの実験だ。本当なら一本だけ倒すつもりだったが、俺のお茶目さん。
木を一本目の前に置いて、両端が丸くなるようにしてみる。道具なんて大層な物はないから身体を使う。ちょっと力を入れて見たら俺でもビビっちまうぐらいの立派な爪を丸く沿ってみる。
するとそれはまあびっくり。綺麗に円状にできちまった。俺は自分の爪に恐怖を覚えながらこれなら作業は問題ないなと確信する。
この爪大丈夫だよね?
寝てる時うっかり自分を貫いたりしないよね?
木の30本目を制作し終えたぐらいからだ。結局雨には間に合わなくてびしょびしょになってしまった。雨に打たれても特に思うことはないが、やはり人間として残っている心が不快感を訴える。ならば家作りはこのまま続行でいいだろう。
その後、何本も何本も切っては投げ切っては投げと自然破壊を繰り返し、ようやく100はいった。正直数は数えてないからだいたいそのくらいだろうという目星ではあるが。
辺りを見回せばアレだけ豊かだった自然が上空から見たらポッカリと穴が空いたようにその中心に大きな影あった。
そう。俺だ。