まさに、壮大な兄妹喧嘩
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肩を上下させ、走り疲れて乱れた息を整える。
視線の先には、どこまでも広がっている広大な海。
足元には、ざらざらとしている砂浜。
そして――海の上で。
こちらに背を向け、刹那が空を見上げて浮いていた。
「何、してんだよ」
そんな問いに呼応するかのように、刹那はゆっくりとこちらに振り返る。
もうそこに、あの明るくて飄々としていた頃の笑顔はなく。
真顔で、冷めた双眸で、まるで憎む相手を見るかのような殺意に彩られていた。
「……何しに来たの? お兄ちゃん 邪魔しないでって言ったよね」
「そういうわけにはいかねえよ。道を誤った妹を正すのは、お兄ちゃんの役目だろ」
「……ッ」
刹那は答えない。ただ忌々しそうに、奥歯を噛み締めるだけ。
兄妹喧嘩なんて、いつぶりだろうか。
妹というのはいつだって、兄を心配させて、迷惑をかけてしまう存在だ。
それでも――兄にとって、可愛くて愛しくてたまらない存在だ。
だからこそなのだ。
どんなことがあろうと絶対に見放したりはせず、元の道に戻そうと考えるのは。
「わたしは、間違ってなんかない。わたしは、自分の幸せのために、お兄ちゃんのために、この世界を壊すの……ッ!」
瞬間――。
刹那の左手が光ったかと思えば、その数瞬後には小さな手に鉄球が握られていた。
あれは……アルが扱っていた鉄球と全く同じものだ。
気を失ったアルの〈武核〉を食べたことで、同じ武器を使えるようになったのだろう。
などと思考に耽る暇すらなく、刹那は鉄球を俺へ目掛けて放つ。
咄嗟に、背後に跳ぶことで避ける――が、気づいたときには、目の前に刹那の姿が消えてしまっていた。
どこに行ったのかと辺りを見回していると、どこからともなく鉄球が迫ってきた。
跳び、地面を転がり、伏せ、また跳ぶ。
そうやって何度も放たれる鉄球の猛攻を、間一髪のところで避け続ける。
刹那は空中を飛び回りながら、俺に向かって鉄球での攻撃を繰り返す。
俺の武器は篭手だ。空を飛んでいる刹那には、なかなか攻撃に転ずる隙が見つからない。
休まる暇なく迫る鉄球の嵐を躱しつつ、どうやって攻撃するべきか思案を巡らす。
すると、刹那の動きに変化が生じた。
空中で浮き、背中から生えた翼が更に何倍何倍も巨大になっていく。今の刹那の全長より、数倍以上も大きく。
そして浮いたまま、翼を前後に羽ばたかせ始めたのである。
途端、猛烈な突風が俺を襲う。
咄嗟に両腕で顔を覆い隠すも、長髪が靡き、風で体が少しずつ後ろへ押されてしまう。
何だ、この風は。いくらなんでも、あまりにも強すぎて前が見えない。
そう。今の俺には、風のせいで上手く前が見えなかった。
風の音で、周りの声も音も、全く耳に入らなかった。
翼を羽ばたかせながら、刹那は鉄球をこちらへ投げてきていたというのに。
「な……ぐ、かはぁ……ッ」
気づいたときには、既に遅かった。
腹部に鉄球が直撃し、口から血を吐きながら遥か後方に吹っ飛ばされる。
「わたしの武器は、アルさんから奪った鉄球だけじゃないんだよ。この翼だって、そうなんだから」
言いながら、地面にうつ伏せに倒れた俺へ向かって再び鉄球を投げる刹那。
俺は立ち上がり、右腕に篭手を顕現させる。
強く拳を握り締め、向かってきた鉄球を――勢いよく右へ振り払った。
瞬時に駆け出す。
そして高く跳び、刹那に殴りかかる――寸前で。
「無駄だよ、お兄ちゃんッ!」
後ろから、鉄球が迫ってきた。
背中に命中し、俺はうめき声をあげながら再度うつ伏せに倒れてしまう。
鉄球だけならまだしも、翼のことも警戒しなくてはいけないのはかなり厄介だ。
でも、だからといって諦めるわけにはいかない。
今ここで俺が諦めてしまえば、本当に俺だけの問題ではなくなってしまうのだ。
ルナやみんなを、俺のせいで死なせるわけにはいかない。守れたはずの命を守れずに、目の前で誰かが死ぬのは、もう嫌なのだ。
「無駄じゃ、ねえよ……。何回やられても諦めなければ、無駄にはならねえんだよ」
激痛を訴えてくる体で、必死に起き上がる。
こんな痛み、何てことはない。
大きな地震によって重い棚に下敷きにされ、そのまま死に至ってしまった、あのときの刹那に比べれば。
この程度、蚊に刺されたようなものだ。
「あんまり、強がらないでよ……手加減、できなくなっちゃうよッ!」
叫び、鉄球を振り回す。
ハンマー投げのような回転の勢いのまま、俺へ向かって投げてくる。
右方に転がることで躱し、起き上がってすぐさま駆ける。
拳を構え、刹那のほうへ。
「来ないで! お兄ちゃんは、わたしを拒絶したんだよッ!」
鉄球を放つ。
今度は左に躱す。
「ずっと、お兄ちゃんのことばかり考えてきたのに! ずっと、またお兄ちゃんと一緒に暮らしたいと思ってたのに! ずっと、ずっと――ッ!」
「……刹那」
喉から名が漏れ、凄まじい勢いで迫ってくる鉄球を今度は避けなかった。
篭手で、正面から鉄球を防ぐ。
重い。痛い。体が押され、今にも突き飛ばされそうになる。
だけど、全体重を地面に伝わせ、全力で耐えてみせた。
「やっぱり、お前は間違ってんだよ。そうじゃねえだろ。一緒に暮らしたいのは、俺も同じに決まってんだろうが」
唸り、更に力を込める。
俺の声に、俺の力に呼応するかのように、篭手が光り輝く。
淡く、俺たちを包み込むほど大きく。
「そうじゃねえんだよ。そんな下らない、それでいて温かい感情のはずなのに……何で世界を壊す必要があるのかってんだよッ」
光は、徐々に激しさを増す。
決して眩しくなどない。むしろ暖かくて、体の傷も心の傷も何もかもが癒えていくような、浄化の光。
「俺が今のお前とは御免だって言ったのはな、お前と二人きりになるのが嫌ってわけじゃねえんだ。ただ、ひとつの大切なもののためだけに、他の大切なものまで見失ってほしくねえんだよ。大切な妹だから、そのままのお前でいてほしくねえ」
全身から、湧き水のように止めどなく力が溢れてくる。
この光の効果なのか分からないが、今はそんなことを考えている余裕などない。
遥か遠くへ、鉄球を振り払った。
「そんな変な姿になったのも、驚きはしたがどうでもいい。羽が生えてんのも、いつも俺のことを馬鹿にしてくんのも、下ネタばっか言ってくんのも、うぜえくらいテンションが高いのも、それも全部お前だ。否定なんかしねえし、そういうところだって今更嫌いになんかなれねえ」
一歩、前に踏み出す。
大地を踏みしめ、刹那のもとへ歩む。
「ただ、クソ恥ずかしいけど、これだけはお前に言っておきたかったんだよ。そんで、その気持ちを、お前にも思い出してほしいんだよ」
また、駆け出す。
刹那のすぐ前方で高く跳び、拳を構え――。
「お前が、刹那が生きていてくれて、俺はな。本当に、本当に、嬉しかったんだよ――ッ!」
拳が、直撃した。
涙で濡れている、刹那の頬に。
今の刹那の軽い体など、俺の殴打で軽く吹っ飛んでしまう。
だけど、俺はすぐさま駆け出し。
その小さな体を、力の限り抱きしめた。
「忘れるな。大切な人がいるのは、俺たちだけじゃない。大切な人が死んで悲しいのは、俺たちだけじゃない。俺にとってお前が世界の半分以上を占めていたみたいに、他の人にもそういう存在が、この世界で生きてんだ。お前に、それを奪ってほしくねえ」
「お、兄、ちゃん……」
刹那の、俺を呼ぶ声が震えている。
俺を抱き返し、わんわんと泣き始めた。
「ごめ、ごめん、なさい……。わたし、お兄ちゃんと、また、一緒に……」
「……ああ」
短く頷き、小さい頭を撫でる。
ああ、いつぶりだろうか。
こうして、刹那の頭を撫でるのは。
姿が変わろうと、その小さくて柔らかい頭は昔と変わらなかった。
「――おかえり、刹那」




