再び、幸せな人生を
「――わたしが、その刹那なんですから」
アンジェの正体が、俺の妹の刹那なのだと。
確かにこいつは、そう言った。
意味が分からない。
理解が追いつかない。
嘘だ冗談だと笑い飛ばしたいのに、どうしてか嘘を言っているようには思えなくて、そんな簡単な言葉すら喉に引っかかったまま出てくれなかった。
「嘘じゃないですよ。あなたじゃないとだめだったんです。だから、この世界にあなたを呼んだんですよ」
それはおかしい。
初めて会ったとき、間違いなく言っていた。
俺が来てしまったのは、運だったのだと。連れてくる人物は、アンジェ自身には選べないのだと。
「……じゃあ、あのとき言ってたことは何なんだよ。お前自身の意思で俺を連れて来たわけじゃないんだろ?」
「確かに言いましたが……それなら、どうしてわたしは最初からコウさんの名前を知っていたんだと思います? どうしてわたしは、あなたが元々男だったことを知っていたんでしょう? おかしいですよね? そりゃそうですよ、嘘だったんですから」
俺がこの世界で目覚めたとき、アンジェは最初から俺の名を呼んでいた。そして、家の中では、俺が元々男だったことを示唆するような問いまで投げかけてきていた。
いや、今から考えれば、他にも不審な点は多々あったじゃないか。
悔しさと怒りで、奥歯を強く歯噛みする。
一緒にいたというのに、あれだけ点在していた矛盾点に一切気づかなかったなんて。
「そんなに怒らないでくださいよー。仕方なかったんですよ。目的を達するまでは、あなたに本当のことを言うわけにはいかなかったんですから」
もしアンジェが素直に真実を話していたら、どうなっていたか。
今となってはあくまで想像でしかないが、きっと俺はアンジェに協力などできなかっただろう。
ルーチェを殺そうとしている者を阻止するだけ。それだけだったから俺は渋々ながら承諾したようなもので、世界を崩壊させることに手を貸すわけがない。
でも本当の悪は――全く想像のつかないところに、潜んでいたのだ。
「お前が本当に刹那だって言うなら、何があったのか教えろ。何で、今そんな姿で生きているのか、俺に教えろよ」
縋るように、俺は言う。
突然の地震に巻き込まれ、刹那は死んだと思っていた。
あのときの泣き顔が頭から離れず、女の泣き顔を見るだけで当時を思い出してしまうくらい闇に蝕まれ続けてきた。
そんな妹が、実は異なる世界で生きていて。
そして、精霊となって世界を滅ぼそうとしている。
姿だけでなく性格まで別人のように変わってしまった経緯を、聞いておかずにはいられなかった。
「……分かった。今から話すことは全部事実だから、ちゃんと聞いてね。お兄ちゃん」
そう言って微笑んだアンジェの顔は。
何だか少し、刹那の笑顔と重なって見えた。
「わたしは、確かに死んだ。重い棚に下敷きにされて、お兄ちゃんの首につけるはずだったネックレスを持ったまま。痛くて、辛くて……でも、お兄ちゃんが無事なら、それでいいと思ってた。だから、たぶんわたしは。泣きながら、それでも笑いながら、死んでいったんだと思う」
ポツリポツリと、俯き気味で語りだす。
いつも明るく飄々としていたアンジェからは想像がつかないほど、その表情には翳りが生じていた。
「目が覚めたのは、知らない白い空間だった。そこで、わたしは姿が変わって、精霊っていう存在になっていることに気づいた。気づいた……というか、教えられたんだけどね。神様ってやつに」
神様。そんなものが実在しているだなんて信じてはいない。
だが、俺は異世界へと連れて来られ、精霊だの〈武核〉だの非現実的な存在と何度も直面してきている。
今更、神様なんているわけないなどと意義を申し立てる気にもなれなかった。
「何日、何ヶ月、何年と、精霊の姿で過ごしていくうちに、だんだんと分かってきた。この街のこと、この世界のこと、精霊ができること。そして――ルーチェさんの存在と、アルさんの存在を」
黙って、刹那の経緯を聞き続ける。
それは妙に淡々とした語り口ではあったけど、きっと俺の想像の及ばない現実離れした日々だったのだろう。
「びっくりしたよ。アルさんは、わたしの顔を見た途端、いきなり襲いかかってくるんだから。あなたのせいで世界が、とか。あなたのせいで暴走が、とか。当時は、全く意味が分からなかったなぁ」
でも、今なら分かる――と、最後にそう付け足した。
その頃から、既にアルのループが始まっていたのだとしたら。
王族の〈武核〉が暴走し、世界が壊れる要因にアンジェが絡んでいるのなら、まずアンジェを狙うのは当然とも言えた。
「それ以来、できるだけ人目につかないように身を隠すようにした。そしたら、今度はわたしの姿が全く見えなくなったからか、アルさんは王族の人間を狙うようになっちゃったけど」
そこから、始まったのか。
王族の人間を殺すという、アルの理不尽な使命が。
「アルさんは、いつの間にかリコルドさんと手を組んでいたみたいで、ルーチェという王女が亡くなったことを知った。そのときは、可哀想だとか、その程度のことしか思わなかった。心境が変化したのは――数ヶ月が経過してからだった」
アンジェは再び空を飛び、俺の肩に座る。
その瞳は、俺ではなく、どこか遠くを見つめていた。
「精霊っていうのはね、異世界から別の人間を連れてくることができるらしいんだ。でも、そのためには死んでいる人間が必要なんだ。肉体そのものを呼ぶことはできないから――異世界の人間の魂を、体の中に入れるために」
ほぼ無意識に、俺は自身の胸に手を当てる。
最初アンジェは入れ替えさせたと言っていたが、実際はルーチェの体の中に俺の魂を入れたというわけか。
そんなことで、自分の体のように動かせてしまうなんて。
「チャンスだって思ったよ。やっぱりわたしは、どれだけ経っても、どの世界に行っても……お兄ちゃんのこと、忘れられなかったんだ」
だから、俺を連れて来たってことか。
何で俺が、こんな目に遭わないといけないのか不思議でしょうがなかったけど。
アンジェにとって、この世界に連れてくる人物は俺じゃないといけなかったのだ。
「さっき、わたしは言ったよね。お兄ちゃんはもう、わたしの誘いに乗るしかないんだって。乗ったんだよ、お兄ちゃんは。それでルナさんが暴走して、世界が崩壊して……アルさんが世界をやり直してきた。でも、もうアルさんは死んだ。これで、正真正銘わたしの勝ちなんだよ、お兄ちゃん」
アンジェは再び空を飛び、俺の眼前で浮く。
そして、俺に向かって手を差し伸べてきた。
「一緒に行こ、お兄ちゃん。わたしと一緒に、新しい世界を創ろ?」
「……新しい世界って何だよ」
少しだけ俯き、俺は問いを投げかける。
刹那が死んでから、どんな人生を送ってきたのかは概ね理解したつもりだ。
でも。たとえそれでも、素直にその手を取る気になどなれなかった。
「二人だけの、幸せな世界だよ。こんな世界なんか壊して、二人で一緒に生きよう。もう、久遠お兄ちゃんが死んだときみたいな悲しい思いもしなくて済むし、嫌なことなんて何一つない、最高の人生を歩もう」
そう言って、笑った。
まるで聖母のような、優しくも穏やかな微笑みで。
胸が苦しかった。
兄が亡くなって、刹那も亡くなって。
独りきりの生活は、心にぽっかりと穴が空いたかのような空虚なものだったけど。
辛かったのは、俺だけじゃなかった。
性格が歪んでしまったのも、俺だけじゃなかったのだ。
あのとき、ちゃんと守れていたら今頃は……。
そんな、ありもしない「もし」を考えては、後悔で胸が張り裂けそうになる。
だから、俺は。
刹那が差し伸べた、その手を――。




