まだ、深い霧の中に
――ドクン、ドクン。
心臓が高鳴り、頬を汗が伝う。
目の前に鎮座しているのは、何の変哲もないただのトイレ。
左が女子便所、右が男子便所である。
今の俺の体は女のものだが、中身は正真正銘の男だ。
体からして明らかに女子便所に入るべきなのかもしれないが、だからといって中身が男の俺が入ってしまったら色々と問題あるのではなかろうか。
などと脳内でひたすら考え、一歩も踏み出すことができずにいるわけで。
そんな俺に、アンジェが苛立ちを隠そうともせずに促してくる。
「もー、何ちんたらしてるんですか! 早くしないと、授業が始まってしまいますよ?」
授業が始まるというのもあるが、それだけでなく膀胱の限界まで訪れてしまう。
ちくしょう。女の体で男子便所に入るのもそれはそれで問題ありそうだし、勇気を振り絞るしかないか。
「ヤンキーのくせに、そんなとこで躊躇わないでくださいよー。ほら、もっと欲望に忠実になりましょう? トイレの中にいる他の女子を犯すくらいのことは――んぐぅっ!?」
あまりにもクズな発言をするアンジェの首を握り締め、意を決して女子トイレの中に足を踏み入れる。
当然だけど小便器は一つもないし、心なしかいい匂いが漂っているような感覚さえしてくる。
俺の手元から苦しそうな呻き声が聞こえるが完全に無視を決め込み、手前の個室に入って鍵を閉ざす。
制服の裾を捲り、おずおずと下着を下ろす。
できるだけ見ないようにしながら、便器に座り込む。
それから間もなく、聖水が便器の中に放出された。
ちょろちょろ……と、水音がする。
ただの自分の排泄行為でしかないのに、妙に恥ずかしい。
あれ、トイレってこんなに変な気分になるものだったっけ。
「ほほう……ほほう……これがルーチェさんの……ほほう」
「何見てんだ、変態野郎がっ」
「わたしの首を締めたんですから、それくらいの辱めは許してください! それにわたしは変態ではなく、ただ性に興味津々なだけなんですよ!」
「それを変態っつーんだよ……」
いつの間にか俺の手から抜け出し、俺の下腹部より下を凝視するアンジェを半眼で睨む。
しかし全く悪びれた様子もなく、自身の首の後ろに両腕を回して虚空を飛び回る。
周りから物音は一切しない上に、人の気配も全く感じない。
どうやら今、女子トイレにいるのは俺とアンジェだけらしい。
せっかくだから、あの件を訊いてみることにしよう。
「なあ、さっきの篭手は何だったんだ?」
「……下半身を露出させたまま、そんな真面目な話を始めちゃうんですか?」
「う、うるせえ!」
アンジェに指摘され、慌てて下着を穿く。
そんな俺をニヤケ顔で見つめ、やがて真剣な表情で話し出す。
「人間の体内には、〈武核〉という結晶のようなものが入っています。どうしてなのかは不明ですが、空気があるのと同じくらいこの世界では当然の常識なのです。その〈武核〉からは止めどなく大量のエネルギーが放出され、その力が武器となって顕現する――という仕組みなわけですよ」
ほぼ無意識に、自分の胸に手を当てる。
体の中にそんなものが入っているだなんて、説明されても全く実感が湧かない。
でもこんなところでわざわざ嘘をつく必要なんかないし、現に篭手を顕現させてしまったのだから本当のことなのだろう。
「ルーチェさんの場合は篭手でしたが、剣だったり槍だったり、はたまた銃だったり弓だったり……と、その人によってまちまちですけどねー」
「篭手って、すげえ微妙な武器だな……。そもそも武器って言えるのか?」
「ルーチェさんの体であり、元々ルーチェさんの武器だったんですから、そこは我慢してくださいよー」
ある意味、剣とか槍とかじゃなくてよかったかもしれない。
そんな武器を手にしたところで、今まで触ったことすらない俺が使っても上手く扱える気がしないし。
その点、篭手なら殴ったりすればいいだけだから、いつもの喧嘩と大きな差異はない。
「お前にはないのか?」
「え? わたしは人間じゃないですからねー。人間だけの特権です」
じゃあ精霊にも何か別の力が備わっていたりしないのか……と訊こうとしたが、昨日、目的を達成するまで自分のことは話さないと言っていた。
おそらく今訊いても、はぐらかされるだけに違いない。
脳内にこびりついた記憶を抑えるように頭を押さえ、別の質問を投げかける。
「……なあ。これからも、またさっきみたいにルナが襲われる可能性ってあんのか?」
「そりゃあ、あるでしょうねぇ。何と言っても、あんなに可愛らしい容姿をしているわけですし。ま、わたしには敵いませんが! わたしには敵いませんがねっ! それに、ルーチェさんのお姉さんということで、標的がルナさんに移ってしまう可能性もありますね」
「……そうか」
実の肉親なのだ。
ルナに限らず、家族や使用人の誰かが狙われてしまうことだって有り得る。
きっと、みんなも何かしらの武器を使えるんだろうけど、ルーチェがやられた相手なわけで。絶対に大丈夫と言い切れる保証など、どこにもない。
どうしてルーチェが命を狙われているのかは、未だに何も分からないが。
家族を、そして大切な人を失ったときの心が張り裂けそうな気持ちは分かる。
いや――知っている。
自分一人じゃ元の世界に帰る方法なんて分かりっこないし、アンジェのことだから、きっと目的を果たすまで帰してはくれないのだろう。
なので、こんな姿になってしまっている以上、いくら成り行きとはいえアンジェの頼みはやり抜くつもりではあるけど。
その程度じゃ、だめだ。
それだけじゃ、この胸中に蟠る黒い靄は晴れない。
「……絶対。これ以上、ルナにあんな顔させねえ」
誰にともなく呟き、俺は立ち上がる。
俺の目的は、何者かの悪事を阻止することだけじゃない。
今後も、同じように誰かに襲われ、そして何度も泣くようなら。
俺が――絶対に守る。
あの泣き顔を。あの笑顔を。
もう二度と、あんなに苦しい顔をしなくて済むように。
「ちょっ、ちょっと、急にどうしたんですか? も、もしかして、ルナさんのことを……?」
「……別に、そんなんじゃねえよ。ただの――罪滅ぼしだ」
吐き捨てるように答え、トイレから出る。
アンジェは怪訝そうに首を傾げていたが、特に追及してくることなくいつも通り服の中に身を隠した。




