心は乙女
仕事帰りに自分の為に寄り道するなんていつぶりだろう。ケンタと暮らし始めてからの10年、そんなことほとんど無かったように思う。
熱すぎるコーヒーに口をつけながら窓の外を見ると、雨が降り始めている。どうりで店内が混み始めたはずだ。結露したガラスを見るに、どうやら外はだいぶ冷えてきたらしい。
寒さから解放された今時のオシャレをした若い女の子たちが、ホッとしたようにカウンターに列をつくっている。
そんな様子を見ていると、この空間がひどく自分に不釣り合いに感じる。
なんでこんな店に入ったのだろう。
どこにでもある全国チェーンのコーヒーショップ。なのに入ったのは初めてで、注文の仕方も、それどころかメニューすらよく分からない。入店後すぐに後悔したけれど、わたしの後に程なく列ができてしまい帰るに帰れず、あまり得意ではないコーヒーだけを頼み、逃げるように席に座った。
もう出よう。たくさんの人の中にいると、何故か自分が世界で一人ではないかと思わされる。
「本当に成長のない人」
電車の窓に映る自分に対してそんな言葉が出そうになる。
思えば学生の頃からずっとこうだった。
人が嫌いなわけではない。一人になりたいわけでもない。むしろ誰かとつながっていたい。
ただどうしても、本当にどれだけそれを望んでも叶えられなかった。
単調に刻む電車の鼓動が闇くわたしを過去に連れて行き、その振動がやがてわたしに囁いてくる。
「お前自身のせいだ。他の誰でもない。お前自身のせいなのだ」と。
そんなことは、誰に言われなくても分かっている。かつては、家庭環境や両親に責任をなすりつけたかった事もあるけれども。
これは病気なんだと、自分自身言い聞かせて生きてきた。
こんなわたしに、あのひと、白髪正紀は言ってくれた。
「クリスマス…一緒に食事に行ってくれませんか?」
同じ営業課でトップクラスの成績、身長も高く女性からの人気もある彼。
そんな彼に真っ直ぐに見つめられ、わたしは何と言えばいいかも、そして質問すべき言葉も出てこなかった。
あまりの非現実から一秒でも早く不毛な現実に戻りたくて、逃げるように、いや本当に逃げ出した。その直後の彼の強張った顔。おそらくわたしは、彼を誤解させ傷つけただろう。
今まで生きてきて、初めての男性からのクリスマスの誘い。嬉しくないわけがない。同課の女の子ならば、翌日には嬉しくて吹聴しているはずだ。
わたしは今まで孤独ではあるが一人で生きてきたし、ケンタと暮らし始めてからはゆっくりとした時間が流れている。
ケンタは優しくいつもわたしを慰めてくれて、そしてわたしを必要としてくれている。わたしは満たされているはずだ。
なのに何故だろう。白髪正紀、彼のことを思うと胸のあたりが苦しくなる。髪も短く胸もない、女性らしさのカケラもないわたしで彼はいいのだろうか。
いつも女の子に囲まれながら、困ったように微笑む彼。男同士でバイクの話で盛り上がる彼。
いつかツーリングの雑誌を見せてくれたことがあったっけ。綺麗な風景写真の載った本で、あれから何度か書店で気になって見たこともあったな。
そういえば一度好きなタイプを聞かれ、返答に随分困ったこともあった。彼はあの時にはすでにわたしのことを見ていてくれたのだろうか。
あぁなんだ、わたしも彼のことをずっと見ていたんだ。そんな事に今更気付かせられるなんて。
混雑していた電車を降り改札を抜けると、傘をさしている人は見当たらない。
どうやら雨はあがったらしい。わたしは襟をたてて足早に歩き出す。
駅からアパートまでの時間はいつももどかしい。ケンタと会える時間が現実的になるから。
ただ、ケンタとの生活はもう長くは続かない。ケンタの様子を見ていると今までと違うことがよく分かる。そう遠くない未来、ケンタはわたしの前から居なくなるだろう。
これはもうどうしようもないことだ。ケンタのいない世界を一人で生きていくつもりだった。
でも、わたしはそれでいいのだろうか。
一歩踏み出してみたら、何かが変わるだろうか。ケンタは安心してわたしにサヨナラを言えるだろうか。
わたしは外灯の下に立ち止まり携帯を取り出した。指が震える。それは寒さのためか、それとも緊張のためか。両方かもしれない。白髪正紀さんも、誘ってくれた時はきっと同じだったのだ。
わたしは彼の名前をタップした。
「もしもし白髪正紀さんですか?わたし、松下、松下健吾です。今日のお誘い、お受けしようと思います」
それからしばらく彼と話をしたが、嬉しくて嬉しくてあまり内容は覚えてない。気がつくと自宅の前まで帰ってきていた。
ケンタに話さないと。この気持ちをすべて。
「ケンタ、ただいま」
ケンタは長い耳と尻尾をなびかせ、嬉しそうに一吠えし、駆け寄ってきた。