【プロローグ】
矛盾を訂正。
――― ヒック ヒック
ボンヤリとした意識下で、小さな子どものすすり泣く声が頭に響く。
あぁ、これは夢だ。と認識しながらも、私は一面暗闇の世界からその泣き声の主を探さずにはいられなかった。
――― どこに居るの・・・
夢の中なのに私の動きは緩慢で、思い通りにならない体に意識だけが焦燥感に駆られる。
辛く寂しい心を伝える泣き声は大きくはならないものの、その想いが暗闇を伝って私の心を苛んだ。
――― あなたが辛いと私も苦しい・・・
鳴き声に比例するように、ジクジクと痛む胸を抑えながら、遠く遠くにいるその子を探すために、少しずつ歩を進める。
――― まだ、まだまだあの子は遠い・・・
意識が浮上していくのを感じながら、私は泣き声のする方向に精一杯手を伸ばした。
* * * * * * *
ライトグラーンのカーテンから漏れた陽の光が、優しく朝を告げる。
私こと神埼 唯は、見慣れた天井を見ながら長く息を吐き出した。
また、悲しい夢を見た気がする・・・
体を起こしながら、片手で目尻に溜まった涙を拭う。
「あ~も~、朝から憂鬱だ~。」
起きたら忘れてしまう夢なのに、この何かやるせないような気持ちだけが日々胸の奥に積もっていた。
だから多分、似たような夢を見ているんじゃないかな~っと思う。
「まぁ、忘れたことを考えたって仕方ないか!よしっ、今日も頑張るぞ~っ!」
両頬を二回叩けば気合は十分!
私は手早く私服に着替えてエプロンを身につけ、階下へと降りた。
我が家は5人家族。
ただ、両親と歳の離れた幼稚園児の弟は、去年から父の転勤で香港に行っている。
兄はすでに社会人だったから着いていかなかったんだけど、家族にとって、この兄こそが悩みの種で、、、。
兄は仕事は出来る営業マンだし、人当たりも良い。
ほどほどに綺麗好きだから掃除もソコソコこなすし、洗濯に関しても問題はない。
そんな兄の唯一の欠点は、自ら進んで食事を取らないことだったりする。
自分で作れないこともないのに、誰かに食べさせるため以外では絶対に作らないのだ。
身内が作った時は、どんなに失敗作な料理だったとしても食べてくれていたから、最初は誰も気付かなかったんだけど、兄が社会人になってからソレが発覚。
社員食堂があるからお弁当はいらないと言っていた兄。
社員食堂にはこんなメニューやデザートがあると話してくれていたから、家族はてっきり社員食堂でちゃんと食事を取っているものだと思い込んでいた。
仕事で遅くなるときも、夜は外で食べてくるってLINEが来るから、母も私も兄の分は作らずに兄が帰ってくる前に就寝していたんだけど・・・。
そんな兄が倒れたのは、昼も夜も家でご飯を食べない日が2ヶ月ほど続いた時だった。
その日は日曜日で、休み返上で働いている兄以外の全員が家でまったりと過ごしていて、私も録画していたバラエティーを観ていた。
そんな中、けたたましく鳴り響いたのは固定電話の着信音。
こんな時に限って、電話に出たのは一番近くにいた私だった。
『神埼 光さんのお宅でしょうか?!同僚の中尾と申します!神埼さんがデスクワーク中に倒れられましてっ、倒れ方が悪く頭から出血しています!意識が無いので、今は救急車で搬送中です!ご家族の方は川久保総合病院までお願いします!』
電話を取った後のことはパニックになってしまっていて、何て返事して電話を切ったのかは覚えてない。
ただ両親に、兄が倒れて川久保総合病院に搬送中らしい。とだけ伝えて、バタバタと全員で病院へ急いだ。
なにか重い病気なんじゃないかと暗くなる私達を裏切って、兄に下された診断は"過労"に加え軽度の"栄養失調"。
個室の病院ベットの上で、点滴しながら「よっ!」と暢気に片手をあげて私たちを迎えた兄を見て、知らず詰めていた息を吐き出した。
兄の元気な姿に家族で胸をなでおろしつつ、兄の隣にいた(たぶん電話くれた人?)男の人に両親が挨拶を横目に、私はベット脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
お兄の悪癖を暴露したのは、その同僚だと名乗る男の人だった。
いわく、朝たくさん食べたからお昼はいらない。
いわく、朝が食べられなくなるから、夜遅くは食べない。
いわく、サプリ系は錠剤やカピセルを飲めない俺には無理だ。
いわく、野菜ジュースは味が苦手。
などなど・・・
結果、この2ヶ月。兄は朝食だけとってハードなスケジュールをこなしていたらしい。
事情を聞き終えて、父は苦笑い。母は気づいてあげられなかったと涙ぐみ、私はぶち切れた。
同僚に話をやめさせようと冷や汗をかきながらもがいていた兄の胸ぐらを左手で掴みあげ、スナップをきかせた右手で思いっきりお兄の頬を往復ビンタしてやった。
兄は一回り下の私と、親子ほど年下の弟のことをそれは可愛がってくれている。
もちろん私も10歳年下の弟のことを可愛がってはいたけれど、兄の私たちに対するそれは溺愛といえるだろう。
そんな私たちが兄弟間でケンカすることは今までに一度もなかったので、私にビンタをおみまいされた兄は、叩かれた頬を押さえて呆気に私を見つめた。
私は、初めて人を叩いて痛くなった右手を握りしめて、ギッと兄を睨み付けると、思いつく限りの馬事雑言で兄を罵った。
大好きな兄が、死んでしまうのかと思った。
大好きな兄の不調に気付けなかった自分が、許せなかった。
大人のクセに、ちゃんと食事をとらなかった兄にむかついた。
家族をこんなに心配させたくせに、ヘラヘラ笑ってる兄が気に食わなかった。
いろんな想いが交差して、最後は泣きながら怒鳴っていたのに、兄は嬉しそうに「妹にこんなに想われて、兄ちゃんは幸せだ~」とのたまった。
ニコニコしながら怒りで顔を真っ赤にしている私の頭をなでてくる兄に、理解した。
コイツには何を言っても無駄なんだと。
こっちで徹底的に管理してやらなくちゃ!と。
そんなこんなで数年後、長期単身赴任するという父を説得して、私だけが兄の世話をするために日本に残る事にした。
だって、まだ親恋しい幼い弟の側に両親がそろってないなんて、そんなの可哀そうだものね!
「さーて、先に洗濯物回してから朝ご飯作ろ~っと」
お気に入りの音楽を口ずさみながら洗濯機を回して、夜のうちの予約炊飯していたご飯をお供え用の器に山のように盛る。
和室の神棚にご飯をお供えすれば、視界に入るのは4月から着ていく真新しい制服だ。
この制服を着たいがために、ホントに受験頑張ったんだよ私っ!
「もう~い~くつ寝ると~、高校生~♪」
寝起きの憂鬱さを忘れるくらい、私のテンションは上がっていく。
「元気なのは良いが、花の女子高生がニヘニヘ笑っていたら新しい友達できないぞ、唯。」
制服を見てニマニマしていた私の後ろから、紺色のピッタリとしたスーツを着こなした兄がやってきて、私の頭をグリグリ撫で?てきた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃんがそうやっていつもグリグリするから、私の身長伸びないんだよ~っ!」
「160もあれば充分だろーが。女があんまり高いと男できないぞ?」
「お兄ちゃんみたいに背が高い方が、高い所の物が取りやすくて便利なのに~。」
片頬を膨らませて、プイッとそっぽ向く。
お兄はそんな私の頬を楽しそうにツンツン突くと、そらっと片手で私を抱き上げた。
一気に高くなる視界は、小さいころから慣れ親しんだ景色だ。
「兄ちゃんがこうしてやれば、唯だって高い所の物も取れるだろ?」
小学校から大学まで、ず~っと野球をしていた兄の筋肉は衰え知らずで安定感抜群だ。
でも、
「お兄ちゃん・・・コレしてもらうくらいなら、お兄ちゃんに取ってもらうよ・・・。」
我が兄は、どうしてこう時々おまぬけなのか・・・。
私は呆れてそう言いながら、お兄の腕をタップした。
小さいころからの“降ろして”の合図だ。
「唯ももう高校生か~、時間が流れるのは早いな~。」
私のタップを無視して、兄は私の頬に頬ずりする。
頬ずりは小さいころから両親が良くしてくれる愛情表現伝で、我が家では兄弟間のスキンシップの1つだ。
友達からはななんだか生暖かい目で見られるが、我が家では日常である。
なんで自分より小さい子の頬ってこんなに気持ちいいんだろ~ね~?
私自身、弟の晃にスリスリすると癒される・・・って時間!
「お兄っ!私、まだお弁当も作ってないのっ!!」
されるがままだった視界に時計が映りこんで、私は時間がないことに焦った。
兄の腕をバシバシと強くタップして、半ば無理やり解放してもらう。
「お兄ちゃんはちゃんと朝ご飯食べなきゃ!」
兄が倒れて以来、母と私は兄の朝夕のご飯はもちろん、お昼用のお弁当は必ず作って持たせるようにしていた。
私たちが作った物だと兄のもったいない精神が働くらしく、その後はご飯を食べない事も無くなったおかげで元気に働いている。
同僚さんの話しだと、仕事の効率もかなり良くなったらしい。
それを自覚した兄は、やっと食事をとらなかったことに対して反省したようだった。
仕事にやりがいを感じていた時期だった(らしい)とはいえ、全く手のかかる兄である。
「唯、今日のお昼は長めに時間が取れそうなんだ。この間唯が行きたいって言ってた、ちょっとお高めの喫茶店、行ってみるか?」
まぁ、そんな兄に存分に甘やかしてもらえるのは妹の特権ってことで!
「行く、行く、行く~!!やった~!お兄ちゃん、大好きだ~♪」
私の言った何気ない一言でさえ覚えてくれていた兄。
嬉しくて、飛び跳ねながらタックルする勢いで抱き着いても、兄ならしっかり受け止めてくれることを知っている。
あー私、こんなに兄弟大好きで、彼氏なんてできるんだろうか?
ご先祖様!高校生になったら、兄弟以上の良い男の人とご縁がありますようにお導き下さい!
兄の胸に頭をグリグリこすりつけながら嬉しさを表現した。
「お弁当作らなくて良いなら、ゆっくり朝ごはん食べられるね!お兄ちゃん、行こうっ♪」
「おい!唯!!前、鏡っ!!」
調子に乗って兄の右腕を両手でつかんで振り向くと、目の前には祖母の形見である昔ながらの大きな姿見が。
兄がとっさに声をかけてくれるも、勢いをつけすぎた私は止まりきれなかった。
あぁ。どうして私はいつもこうおっちょこちょいなんだろう・・・っ。