婚約破棄
二人だけしかいない空間。
通常ならば、執務のために書記官が多数行き来する部屋だが、今は人払いされているらしい。
耳に痛いほどの静寂の中、王太子殿下が、口を開いた。
「婚約破棄を進めようと思う」
分かっていた。こうなることを。
覚悟していたからと言って、悲しみが減るわけではないらしい。
ただ、冷静にはなれた。
そのことだけを、今は自分をほめたい。
「理由をお聞きしても?」
その言葉に、殿下が失笑される。
分かっているだろうと、言わんばかりに。
知っている。分かってはいるが、直接お聞きしたことはないのだ。
勝手な想像が、思い込みが産む悲劇もある。
だからこそ、聞かなければならない。
「別に愛する女性がいる。・・・それだけならば、諦めなければならない立場であることも理解はしている」
ちらりと、今日初めて殿下が私をその瞳に映す。
そうして、顔をしかめた。
「けれど、婚約者であるあなたが、国母たるにふさわしくないと判断された」
殿下は、何を言っているのかわかっているのであろうか。
王の叔父であり、王を今も横で支え続けている公爵の一人娘が、国母にふさわしくないと?
判断された・・・とは、誰から?
「陰湿な嫌がらせを繰り返すその性質と、傲慢な態度は、許容できない」
殿下の強い視線が私を射抜く。
言い逃れを許さないと言うように。
生まれ落ちた際から始まった、王族としての教育は、立ち居振る舞い、相手へ与える威圧感さえも手に入れることができるのであろうか。
震えないように、苦心して、言葉を紡ぎだす。
「陰湿な嫌がらせなど、しておりません」
そう言われるのが分かっていたように、鷹揚に頷き、書面を差し出した。
「言い逃れしたければ、謁見の間で行う。関係者だけを集めた、私的なものとした。その場で、正式な婚約破棄の書面を交わす」
そう言って渡された書面は、謁見への出仕書。
王の名をもって、正式に王宮へ来るように言われている。
何を言っても、無駄なのだろうと思う。
―――表情を固めなさい。感情を殺してはいけませんよ?すべての感情は、様々なものを生み出すために必要となるものです。
けれど、それを他人に悟らせる必要はありません。どんなに怒っても、悲しくても、です。微笑んで見せるくらいのことを、やってみせなさい。その微笑みは、あなたの武器なのですから。
お母様。お母様。お母様。
なんて難しいの。いっそ、何も感じなければいいのに。
婚約者にも、この感情を見せてはならないのですか。
人生のすべてを捧げ、この人とともに歩いていく覚悟をした相手に疑われ、侮蔑されても、私は微笑んで見せなければならないのですか。
「涼しい顔だな。婚約破棄など無理だと思っているのか?・・・それもいいだろう。では、1週間後に」
全ての感情を仮面の下に押し込んで、瞳を伏せた。
殿下自らが、ドアまで行き、開けてくれた。
私は、促されるまま、礼を取り、退出した。
廊下に一歩出ると、私の護衛が待っていた。
例え婚約者であろうと―――それも、あと1週間のことらしいが―――男女が部屋で二人きりになれるわけがない。護衛にはすぐ外で待機させ、ドアは少し開けていた。多分、声は漏れていただろうが、全く表情に出さないのは、さすがと言える。
「エルクハルト様っ!」
突如、大きな声がして、すかさず、殿下のそばに寄ろうとして・・・やめた。
ヴィオラ=ダックローズ男爵令嬢、殿下の想い人である。
兵も瞬時に緊張はしたが、わたしよりも、気が付くのが早かったのであろう。微動だにしなかった。
殿下のそばに寄ろうとした様子が分かったのであろう。ヴィオラ様が、こちらを見てそのまま、ぷいっと擬態語でもしそうなくらい顔をそむけた。
「殿下っ!お話は終わったのですか?心配しましたっ!」
目の前にいると言うのに、そんなに大きな声を出さないといけないものだろうか。
王宮に、あり得ない大声が響く。
廊下の奥から、ひょこっと顔を出して、異常ないことを確認しにくる使用人が見えた。
「ダックローズ様、大声を出して、走るなど、はしたないですわ」
言わずにはいられない。
これは、貴族としての義務なのだ。
感情を露わにしないこと、常に冷静沈着・・・そうでなくとも、そう見せること。
不測の事態が生じたとき、貴族がそうでなくては、要らぬ混乱を招くのだ。
私から声をかけられると、ダックローズ様は、目に見えてびくりと体を震わせた。
……大げさだ。
口をとがらせて、私を振り向いた後、涙目で殿下を見上げる。
その仕草は、・・・可愛いのだろうか?
私にはよくわからないが、芝居を見ているようだ。
「でも、心配だったのです。ふっ・・・二人きりだなんて、何をされているのかって・・・!」
……侮辱されているのだろうか。
結婚前に、執務室で何か、事に及ぶと。
「ヴィー、君が心配することなど何もないよ」
穏やかに、殿下は微笑まれる。
そうして、厳しい目を私に向ける。
私は、諭しただけで、糾弾したわけではない。
王宮で大声を出す人間などいない。
そんなことがあれば、働いている途中でも、何があったのかと駆けつけてくる。
多くの要人が行き交い、様々なトラブルが発生しうる場所だ。下らないことで煩わせてはならない。
「ダックローズ様、何故、ここに?人払いをされているはずでは?殿下の命を無視したのですか?」
現在、この長い廊下には、護衛と殿下、私とダックローズ令嬢のみだ。
先ほどの顔を出した使用人も、異常がなければ立ち入りはしない。
「だって・・・っ!」
両手を握りしめ、ふるふる震え始める。
「シャルロッテ、それ以上は必要のない叱責だ」
涙を浮かべた令嬢をかばいながら、殿下が前に出てくる。
「人払いをしている廊に、無断で立ち入ってきた者にですか?」
通常ならば、スパイを疑われてもおかしくない行動だ。
こんな間抜けなスパイはいないだろうが。
「私が部屋から出てきたから、安心して近寄ってきたのだ。これ以上の問答は無用だ」
命令無視を勝手に許容範囲だと判断する。
それを許容する殿下に眩暈を覚える。
現在は、婚約者でも何もない令嬢がそれをすることによって、どれだけの影響が出るのだろう。
婚約者だとしてもだ。
たった一人が、命令を覆す能力を持っているとでもいうのか。
それを、兵士がしたらどうする?
同じことを、文官がしたらどうする?
上の命令に背いたと意識せずに、命令違反を犯すことなど、なんて恐ろしい事態だろう。
「どうして、こんな腑抜けに・・・」
気づかれないように小さく、だけど、堪えきれなかったつぶやきが、私の口から洩れた。