青年と雁
「じゃあ、太郎。気を付けてね」
「うん、行ってきます」
旅行の支度を終え、見送りに来てくれた母に挨拶をすると、俺は扉を開けた。いい天気だった。玄関先でつま先をトントン蹴って合わせていると、母が俺を呼び止めた。
「太郎」
「何?母さん」
「……就職できてよかったね。友達もできて」
「……うん」
母は嬉しそうに、にっこりと笑う。
俺よりも嬉しそうなその笑顔。俺は照れくさくなりながら、家の玄関を出た。
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昔々、あるところに、一人の青年がおりました。
青年は大そう人が良かったのですが、自身が無く、いつも同僚に引け目を感じておりました。
そんなある日、青年は仲の良い同僚たちと、旅行に行くことになりました。
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「でさー」
酒を飲みながら、武岡は下品な笑いを浮かべる。
テーブルには、飲み明かした缶がいくつも転がっていた。
「そいつがさー、彼女面してっから言ってやったのよ。『帰れ』っつってよ。そしたら泣きそうになってやんの。ハハ」
その話を聞いて、俺の同期はハハハ、と笑い声を上げる。俺にはどの辺が面白いのかさっぱり分からなかったが、しかし周りに合わせて笑い顔だけ作った。
俺は今、同期と一泊二日のスノボ旅行に来ていた。研修で同じ班だった仲間と久々に集まり、山のペンションを貸切って盛り上がっていた。
「あ、やべ。もうこんな時間だ」
時計を見ると三時を回っていた。一泊二日、俺達は明日帰宅する予定だ。そろそろ寝ないとキツイ。しかし。
「いや今日は飲むっしょお!」
イエーイ、と歓声が上がり、乾杯が始まった。
久々の会。俺達は心ゆくまで楽しむつもりだった。俺は正直寝たかったが。
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深夜四時。
同期のほとんどは酔いつぶれていた。ソファや床、至る所に屍の如く転がっている。
「ほいでさー……。俺は言ってやったのよ。『帰れ』っつって……」
武岡と俺は、最後まで残っていた。武岡はもうほとんど寝てしまっていて同じ話を繰り返している。俺もよく残ったなあ……。
「あ、俺、トイレ行ってくるわあ……」
武岡が話の途中、トイレに立った。そのまま玄関に歩いていく。
「え、そっち玄関、危ないよ?」
「らいじょうぶらいじょうぶ。ういー」
俺の引き留めも関係なく、武岡は外へと向かった。確かに男性陣は、途中から酒のノリもあって、用を足すとき外でしていた。しかし今の武岡の状態では危険じゃないか?
「だいじょうぶだって。放っておけ」
隣で寝ていたはずの鈴木が酔い潰れながら、言う。
「むしろあいつ、酒癖悪いから構うとキレっぞ」
鈴木はそう言うと、また眠りについた。しかし俺はこっそり武岡の後を付けることにした。例えキレられたって、大事故を見過ごすより、マシだからね。
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青年は、友人の後を追いました。
思えば青年は、友人の事を思っての行為でした。
しかしこれがとんでもない事件を招くとは、誰もが思いませんでした。
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「武岡くーん」
俺は叫ぶ。
「うおーい、中田く―ん、少しは仕事ができるようになったー?」
「今はそんなこといいだろ……って、危なっ!」
見ると、武岡は雪山崖っぷちギリギリで用を足していた。危ないと思い、俺は近づく。
「ちょっ、オイ!見んなよ!」
「いや、危ないって……」
「いや、危なくないって!ちょ……」
言っているそばから、武岡はバランスを崩す。そして。
「おっとっとっとああああアアアアアアアアアアアっ!」
「武岡くん!」
武岡はそのままバランスを崩し、谷底に足を滑らせた。俺はすぐに武岡を探す。
幸いなことに、武岡は数メートル下のくぼみに落ちていた。崖底までは数十メートルはある。落ちたら正直命が危ない。
「いってててて……。ったく急に呼ぶからよお」
「大丈夫!?誰か呼んでくる!」
「いいよダッセエ。自分で上る……イテテテ」
カッコ悪い姿を人に見られたくないのだろう。武岡は一人で上り始めようとするも、無理そうだ。仕方なく俺は、武岡のところまで滑り降り、肩を貸してやる。
「イテテテ……っきしょう、お前のせいだからな」
「はいはい。あ、そこ気を付けて。滑りやすいから」
俺が顎で指してやる。も、武岡は聞いていない。
「っあ、危ないっ!」
瞬間のことだった。
武岡は足を滑らせたが、必死に体勢を立て直そうと、掴んでいるものを必死に引っ張った。
俺の袖を。
俺のバランスが崩れ、今度は足を滑らせる。俺は……掴むものが何も無かった。
俺の体は崖下へと転がりながら落ちていった。
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青年は、崖下に落ちたまま、意識を失いました。
しかし、目が覚めた時には、自分の姿に驚きました。
一匹の雁になっていたからです。
青年は訳も分からず狼狽えていると、一人の天使が青年の元に現れました。
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「……まあ、『小説家になろう』とかだとよくある話ですよね。
ニートが転生してチートを発揮したり、異世界に飛ばされて勇者になったり、ハーレム作ったり」
「…………」
俺は、天使の持ってきた鏡を見た。
もこもことした体毛、くちばし、水かきの付いた、よちよち歩きの足……。
「思いっきり人外じゃねえええかああああ!!!」
「お、落ち着いてください!」
金髪の天使……メルエムは、俺をなだめた。
「これが……落ち着いていられますか!人外だし!雁だし!」
「待ってください!あなたの記憶がある、ということは、あなたの体も生きている、という事です」
メルエムは説明する。
「まだ転生したければ探し出してください、あなたの体を。もしあなたの記憶が完全になくなってしまったら、もうチャンスはありません」
「……対象を間違ったくせに」
「仕方ないです!あなたのお人よしは予想外だったんですから!いいですか!聞いてください。体を見つけ出したら、それから……」
ご飯よー、という声が聞こえ、俺は振り向く。
俺(雁verの)の母の声だ。餌を捕ってきてくれたらしい。姿の見えない俺を探す、不安げな声も聞こえてくる。
「ちいいっ!ごはんの時間だ!それじゃ、また後で!」
「馴染んでるじゃないですかあ……」
メルエムは言う。
「本当に、戻れなくなってしまいますよお……?」
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雁になった青年は、真面目に雁として生活を送っていました。
エサの取り方、飛び方などを誰よりも懸命に覚えようとし、うまくエサにありつけない力の弱い兄弟には、自分が取っておいたエサを分け与えるなど、まだ幼い他の兄弟たちをリードするようになりました。
青年の姿に、母も喜びました。しかし、青年の想いは違いました。
そこあったのは、いずれ兄弟達のもとを去ってしまう、罪悪感のようなものでした。
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「本当に、クルは頑張りますねえ……」
(雁verの)俺の、母は、その柔らかい羽で俺を優しくなでた。クル、というのは俺の名前だ。
「母は、本当に幸せです」
「…………」
俺は、恥ずかしいような気持ちを覚えた。もう二十も半ばを過ぎた男が、母の胸で丸くなっているのだ。もちろん雁の姿だけど、恥ずかしいものは、たしかにある。
「貴方が大きくなって、海を渡れるようになるのが、本当に楽しみです。ええ。貴方にあの素晴らしい景色を早く見せてあげたい……」
それに、罪悪感。
俺は、この母が望む頃には、もういない。もとの世界に戻っているだろうと思う。もう忘れかけているものもある。すぐにでも戻らないと。
元の世界の母は、今どうしているだろうか。
「母さん」
俺はお母さん雁に呼びかける。
「もし僕が、ここからいなくなってしまったら、どうですか?」
俺は言うと、お母さん雁は少し驚いたような顔をした。まだ満足にエサも取れない兄弟がいる中で、一番の戦力である俺がそのような事を言うのだ、戸惑いの色が隠せないのだろう、と俺は思った。
しかし。
「もし、本当にあなたがそう願うのでしたら、私は止めませんよ」
「え?」
俺は驚いて、お母さん雁の顔を見る。
「私は群れの一員ですが、それより前にあなたの母です。あなたの幸せを誰よりも願っています。貴方が望むのなら、それでも構いません」
「お母さん。兄弟達は……」
「何も心配しないで。お休み、クル」
お母さん雁は優しく微笑んだ。
それだけに、俺の気持ちは傷んだ。
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やがて、努力の甲斐もあり、青年は兄弟の中で一番早く飛べるようになりました。
青年は、お母さん雁に内緒で、こっそり町の様子を見に行くことにしました。
自分のいなくなってからの町の様子を、見てみたかったのです。
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「いええええええええい!
それなーんで持ってるの!?なーんで持ってるの!?飲みたいーかーら持ってるの!それ飲―んで飲―んで飲んで……」
「キャハハ、武岡さん面白―い!」
「はっはっはっはっはっはっは!」
「………………………………………………………………」
「た、太郎さん……見つかっちゃいますよお……」
俺の翼を、メルエムは引っ張る。
午後九時。会社近くの飲み屋。そんな場所に俺はいた。
ちょっと飛べるようになって。そういえば俺がいなくなって会社はどんなだったかな、と見てみたらこれだ。ちょうど武岡が女の子数人引き連れて合コンに精を出しているところだった。
「ちなみに、太郎さんは会社では事故、ということで片付いてます。恐らく武岡さんが証言したものかと……」
「事故?俺が?むしろ俺は止めてたはずなんだけどさ……」
「ええ、知っています」
「会社は……、同期は……、それを信じたのか?」
「……そうなります……あんまり怒らないでください……あうう……」
メルエムは怯えながら言う。
俺は……なんとも言えない気持ちになっていた。
俺なんかがいなくても、誰も何も思わない。世界は普通に回っているんだ、と。しかし悔しいとも別に思わない。ああ、そうですか、とただ冷静に受け止めていた。明らかに俺、雁の社会の方で必要とされてんな。
つーか俺、こんな世界に戻るのか。
「俺は……いったい……」
俺は飲み屋をそっと離れる。
「どこ行くんですか!?」
メルエムが心配そうに言う。俺は答えた。
「いや。もう一つ、本来の目的地だよ」
俺が言った後、ピンと合点がいったかのような顔をして、メルエムは着いてきた。
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辿り着いた場所は、暗かった。
部屋の電気がついていないのだ。まだ仕事から帰っていないのか。俺はそうも思いながら、部屋を覗き込んだ。
いた。
暗い部屋でただ一人、正座して。
母さんが泣いていた。
「ひっ…………ひっ…………」
泣きじゃくる声が聞こえる。
母さんの目の前にあったのは、俺の写真だった。声を押し殺して、肩を震わせ、それでもこらえきれない声が漏れていた。
「……太郎…………」
バサリ、と俺は扉を広げた。母にも聞こえるようにと、力強く。
「太郎さん!?」
「メルエム……俺は、何があっても、人間に戻るよ」
俺は言った。
「例え戻った体が腐ってても、障害があっても、俺は元の体に戻る。そして絶対に、母さんのもとへと戻りたい。例え誰を敵に回しても」
「太郎さん……」
メルエムが心配そうな声で言った。
「……自殺なんてしたら、こんな感じなんだろうなあ。自分の事をどうでもいいと思っている奴はさっさと忘れ、自分を大切に思ってくれている人だけが泣き続ける」
俺は大きく羽ばたいた。
「絶対に、母のもとに戻ってみせる。もう、大切な人を泣かせたりしない」
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翼で自由に飛べるようになった青年は、ようやく自分の体を見つけました。
雪の中だったので、ほとんど状態が悪化しないで済んだのです。
青年は、大いに喜びました。そして天使に元の体に戻る方法を聞いたのです。
その方法を聞いて今度は、青年は大いに驚きました。
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「この体を殺す……?」
「そうです」
メルエムは、本来の天使の役目を全うするかのように、冷淡に、それでいてどこか優しげな声で言った。
「あなたの人間の体の前で、あなたの雁の体を殺しなさい。そうすれば、人間の体に戻れるでしょう」
「本当だろうな!?」
俺は声を張り上げた。リスクが高すぎるからだ。万が一事実ではなかったら、大変なことになる。
「それは当然の節理です。二つの体を同時に操る事は原則許せません。大丈夫。私は天使。あなたの魂を元の体に、無事導いてみせますよ」
メルエムは慈愛の目で微笑んだ。
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「母さん」
「クル!」
母さん雁は俺の姿を見つけると、安堵したような顔を浮かべた。
「夜中にいなくなったから、心配したのですよ。母は……。どこか痛めていませんか?羽は大丈夫?もう……」
普段は落ち着き払っているお母さん雁が、慌てふためいていた。相当心配を掛けていたんだろう。
言えなかった。
涙が溢れそうになった。
「お母さん」
俺はお母さん雁にようやく、言った。
「大切なお話があります」
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青年は全てを話しました。
自分は、もともと別の世界にいたこと。
帰らなければいけないこと。
兄弟達と一緒に旅を続けることはできないこと。
そして、お母さん雁と、兄弟達にとてもとても、感謝をしていること。
お母さん雁は泣きました。青年も泣きました。
そして……
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「クル……」
「ごめんなさい、お母さん」
俺は俯いて謝った。
お母さん雁は知るはずもないが、俺はこの体を殺さなければならない。
大切な、大切な、この体を。
お母さん雁は、そんな俺をそっと抱きしめた。
「貴方に出会ってから、私はとても幸せでした。とってもいろいろなものを頂きました。
何をやるにも一生懸命で……それでいて、兄弟達にも優しくて……あなたは、私の自慢の息子ですよ」
お母さん雁が俺を抱きしめる翼に力が入る。他の兄弟達は、ぽかんと俺のことを見つめている。それでもお母さん雁は、俺を抱きしめるのを止めなかった。
「でも、忘れないで。お母さんは、貴方がどこにいても、どんな時でも、あなたの幸せを願っています」
「お母さん……」
気付けば、俺は泣いていた。大量の涙をこぼしていた。
そんな俺をお母さん雁はそっと離した。目にはまだ拭いきれない涙が残っていた。
でも、最後だからだろう。お母さん雁は笑顔を作って俺に一言、言った。
いってらっしゃい、と。
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最後だし、物語じゃなく、俺の口から話そう。
201X年、夏。
アブラゼミがけたたましく鳴く山中を俺はただひたすら登っていた。
片手に荷物を持って、うだるような暑さの中を進む。今年はまた過去最高気温とやらを更新したらしい。
そうだ、その後のことでも話そうか。
元の体に戻った俺はその後、自力で地元警察の元に行き、無事家路につくことができた。
その事は新聞でもかなり取り沙汰された。何せ半年振りの帰宅だ。恐らく日本の遭難では前例がないんじゃないかと思う。
母は、大変喜んでくれた。
その辺は照れくさいので細かくは語らないが、まあ、俺も、その姿が見れて、とてもうれしかった。
武岡は会社をクビになった。
俺は戻った後、すべてを洗いざらいぶちまけた。
事の経緯、そして俺を救助しなかったこと。すべて。
それだけならまだしも、社会的な非難を恐れた会社は、すぐに武岡に責任を追及した。武岡は居づらくなって、自分から会社を辞めていった。
ただ俺も、会社を辞めていた。
会社の暗黙のルールで、長期休暇を一度でも経験した社員は出世が絶望的になるらしい。ゆえに今後の事を考え、俺は会社を変えた。今は好きな仕事で、伸び伸び頑張っている。給料は今とそんなに変わらないが、軌道に乗れば元の会社より早く所得が増えそうだ。
「たしかもうすぐ……」
「そうですねえ……」
あ、そうそう。あと俺は、天使が見えるようになっていた。一人限定だけど。
そろそろ目的地に着きそうだ。
俺は、持っていた花束を持ち直した。
「この辺だったよなあ……」
俺は茂みの中を突き進んだ。傍から見たら何やってんだろうと思われそうだが、関係ない。この山、夏は人少ないし。
俺が来たのは、半年前、スノボに行ったあの山だった。
向かうのはあのペンション、ではなくて、俺の転落した崖。その近くにあった大きな木。
「……あった。ここだ」
俺の育った、巣のある場所だった。
間もなく俺は目的のものを、すぐに見つけた。
俺の育った大きな木。そのすぐ近く。
一羽の雌の雁が横たわっていた。
見覚えのある羽の模様。間違いが無かった。
……やっぱりか。
よもやと思ったが、それも仕方なかった。
その後俺は、一時間近く作業していた。
作ったのは、お墓だった。そこそこ立派なお墓だ。
雁の遺体をそこに埋葬した。
俺は手を合わせ、花を供えた。そして念じた。
ありがとう、と。
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