09
今日もぼくは屋上にいた。きっと一年の半分くらいは高いところにいるのではないだろうか、と思うくらいの高確率だ。
だけど、そんなことはどうでもいい。ぼくはいつだって、目の前にいる「彼ら」を助けようと努力するだけだ。
「来ないで」
「わかった。じゃあ、君がこっちに来てくれないか?」
「はあ?」
「ぶふっ」
「……君」
「ああ、ごめんごめん。先を続けて」
緊張感の欠片もなく吹き出したのは、もちろんぼくの相棒だった。三日間休みを取ったはずのぼくがわずか一日で復帰して、職場に来たのを見たときも笑っていたな。そんな彼は、今日もぼくの後ろで何も言わずに佇んでいるだけ。
だけど、それも今はどうでもいい。今は数メートル先の屋上のへりに立って、今にも飛び降りてしまいそうな少女を助けることに集中しなくては。
「わたしを助けにきたんだったらムダだから。そっちに戻る気はないの」
「じゃあ、少し話をしないか」
「時間稼ぎのつもり? 鬱陶しいから早く帰ってよ」
「ぼくは、少しでも君の気持ちを理解したいんだ」
それは、紛れもないぼくの本音だった。まずは共感することが大切だ。そのために、ぼくは彼女の話を聞きたいと思った。
しかし、彼女は何故か大きく目を見開き、絶望したような表情をしたかと思うと、ふっと薄い笑みを浮かべた。
「理解? 理解って何? バッカみたい」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味に決まってるでしょ? あんたなんかにわたしの気持ちがわかるはずないってこと」
彼女は笑ってはいるものの、それは当然ながら歪んだ笑みだった。そして、吐き捨てるような叫びは、悲痛に満ちている。
確かに、彼女の主張は正しい。ぼくは現在の時点で彼女の気持ちがわからないし、もし話を聞けたとしても、理解できるという保証はない。あの少年が言っていたように、「絶対」ということは有り得ないのだ。
――だけど、だからこそ。
「ああ、そうさ。ぼくは君ではないのだから、君の気持ちを完全に理解することはできない」
また言ってしまった。これは、一番大切な共感とは正反対の、拒絶の言葉だ。
「だけど」
だけど、そうじゃない。わからないから自分の意見を押しつけたり、丸投げにしたりするのではなく、やっぱり共感したいんだ。だから、
「さっきも言ったけれど、ぼくは君の気持ちを理解したいと思っている。それは、できないかもしれないけれど、できるかもしれない。だけど、君が何も話してくれないことには、理解できるかどうかもわからないんだ。だから、まずは何でもいいから話してくれないか? 君を、理解するために」
そう、自殺したいと思っているのは彼女なんだから、向こうが話してくれなければ何もわからないのだ。責任逃れをするわけではないが、ここで死なれてしまったら、拒絶したのはぼくではなく、彼女だということになるのではないだろうか。
しかし、何かしら話してくれれば、ぼくも理解できるようになるかもしれないし、何より、話している間は「彼ら」が死ぬことはない。単純かもしれないけれど、とにかく死を先延ばしにするしかない。今はそうやって「彼ら」を生かすしかないのだ。
「だから、ぼくと話をしよう。愚痴でも何でもいい。ぼくに君の気持ちを理解させてくれ。ぼくが、君の『未練』を引き受ける」
きっとこれが今のぼくにできる精一杯のことで、ぼくが「彼ら」のために――ひいては自分のために――したいことなのだ。
「……ねえ」
「何だ?」
「今、わたしが自殺を止められてる側なんだよね」
「ああ」
「じゃあ、何で『気持ちを理解させてくれ』とか上から目線なわけ?」
「え、いや、別にそういうつもりはなかったんだが……」
また気を悪くさせてしまっただろうか、と思っていると、その焦りに反して、彼女はぷっと吹き出した。その笑顔は、先ほどとは打って変わって無邪気なもので。
「あんた、よくそんなんで自殺を止めようと思ったね」
「それがぼくの仕事だからな」
「仕事、ね」
「でも、ぼくがやりたくてやっている仕事だ。今までの言葉にウソはない」
「それがウソくさいんだけど、まあいいや。何か気が抜けた。今日は自殺するの、やめるわ」
そう言って、少女はあっさりとこちらに向かって歩いてきたではないか。そして、彼女が目の前まで来たときに、ぼくは自然とこう口にしていた。
「思いとどまってくれて、ありがとう」
自分で言ったその言葉に、ああ、そうか、と納得する。ああ、そうか。ぼくはやっぱりエゴイストなのだ。自分が哀しみたくないから、「彼ら」を助けているだけ。
しかし、彼女は眉間にシワを寄せると、こちらを強くにらみつけてきた。
「勘違いしないでくれる? 今日のところはあんたが鬱陶しいからやめるだけで、今度はあんたに見つからないように死んでやるから」
「それは困るな。ぼくはまだ君の話を聞いていない」
「知らないよ。じゃあ、わたしが話をしたくなるよう、あんたが説得してみせたら?」
「それはつまり、君とまた会う機会があるってことか?」
もしそうじゃなかったとしても、自分から彼女をさがして会いにいこうと思っている。何故なら、ぼくと彼女はこうやって出逢って、関わってしまったのだから。
ぼくは、ここで彼女を放置してはいけない。彼女の話を聞いて、共感して、彼女を生かすように、彼女を救わなければならない。それが、ぼくの役目だ。ここでそのつながりを断ち切ってはいけないのだ。
「あんた、プラス思考にもほどがあるでしょ」
「そうか? 自分ではマイナス思考だと思っているんだが」
「絶対ウソ。信用できない」
「じゃあ、どうすれば信用してくれるんだ?」
「そうだね……あんた、わたしを助けたいんだよね」
「もちろん」
「じゃあ、あんたがわたしの自殺を止められたら、信用してやってもいいよ」
挑発するようにささやいて、彼女は不敵な笑みを浮かべる。これは、試されているのだろうか。ならば、
「ああ、のぞむところだ」
彼らの「未練」を引き受けると決めたのは、ぼくだ。だから、ぼくは彼らに手を差しのべる。彼らのほうから手を差し出されたのなら、迷わずその手を取る。そうして、ぼくは彼らを救いたいのだ。
「君はバカだなあ。いつまで自分のことをエゴイストだなんて思っているんだい?」
「え?」
少女と連絡先を交換して、見送りが終わったころ、タイミングを見計らったようにかけられた声に振り向く。誰のものかすぐにわかったそれは、どこか呆れているように聞こえた。
「君は、君のために彼らを助けているとしても、彼らにとっては彼らのためになっているんだよ。そうして君は、きっといつか彼らの命の恩人になるんだ。それのどこがエゴイストだって言うんだか」
「しかし……」
「確かに君はエゴイストかもしれない。だけど、ぼくからすれば、ただのお人好しだよ」
彼はそう言って苦笑したが、自分ではやっぱりエゴイストなんだと思う。彼らの気持ちなんかお構いなしで、ぼくが彼らに死んでほしくないから、彼らを助けたいと思っているだけ。
そうして結局は、自分が傷つきたくないからであり、自分が彼らの死を見たくないだけなのだ。それでどうしてエゴイストではないと言えるだろうか。
「ぼくは、彼女を助けられたのだろうか」
「助けたじゃないか。今日は負けてないよ」
「そうじゃなくて、本当に『救えた』と言えるだろうか?」
その問いかけに彼は一瞬目を見開いたが、すぐに眉を下げて笑い、
「さあ、それはこれからの君次第だよ。君が彼女を本当に救いたいと思っているのなら、多分救えるさ」
と答えた。そうか、結局はぼく次第か。ああ、やっぱりぼくはエゴイストじゃないか。
いや、それでもいい。それで、いいんだ。それが彼らのためになるのなら、ぼくはぼくのためにそれを続けよう。
ぼくはぼくのために「未練」を引き受け、ぼくのために「彼ら」を救う。ただ、それだけだ。