08
「君は、共感してほしかったんじゃないのか?」
確か、彼はそう言っていた。「彼ら」は自分の現状に対する共感を一番に求めているのだ、と。
ぼくよりも驚いたようなカオをしていた少年にそう理由を告げれば、少年はまたうーん、と少し考えてから、慎重に言葉を紡ぎ始めた。
「確かに、あのときはそうだったかも。お前なんかぼくの気持ちを何も知らないくせに、ただ死ぬなとか簡単に言うな、ってね」
「でも、今はそれが一番ではない、ということか?」
「うん、そう。だってぼくは今、自殺しようとは思ってないから」
ああ、そうか。彼はもう、自殺志願者ではないのだ。
「共感はもう父さんと母さんに十分してもらったよ。三人で泣きながら話してさ、苦しかったんだね、気付いてあげられなくてごめん、って散々謝られたし」
「……そうか」
その光景を想像して、いい家族だな、としみじみ感じる。少年には、彼を支えてくれる人たちがいるのだ。ぼくが中途半端に生かしてしまった命を、きちんと生かしてくれる人たちが。
ぼくも本当は、そのような存在にならなければならなかったのではないだろうか。少年をただ助けるだけではなく、最後まで助けなればならなかったはずなのに。
すると、ぐるぐるとめぐる思考の中、少年の声がはっきりと聞こえた。
「共感してくれる人がいる。ぼくを生かしてくれてる人がいる。だから、あとはぼくが自分でこれからどうするかを考えていかなきゃいけないと思うんだ」
それは、少年の決意なのだろう。こちらを向いた彼は、少し照れくさそうにはにかんだ。ぼくは少年をきちんと助けることができなかったけれど、きっと彼はもう大丈夫だ。
では、ぼくがこれからすべきことは何だ? もう二度と同じ過ちをくり返さないためにはどうしたらいい?
――そうだ、まずは共感だ。
「君はさっき、何故死んではいけないかを教えてほしいと言ったな」
「え? ああ、だって、ただ死ぬなって言われても納得できないじゃん。命は大切だ、とか、そんなのわかってるんだよ。生きてるから死ぬって言えるんだし」
「確かに」
「それをわかった上で死にたいんだよ。生きてることが、すごく苦しいから」
ぼくは今、少年にとって残酷なことを聞いている。少年の苦々しそうなカオがそれを物語っていた。
だけど、こうしなくてはぼくは前へ進めないし、今までの様子からして少年はこの状況に耐えることができるはずだ。そう自分に言い聞かせて、少年の次の言葉を待つ。ああ、やっぱりぼくはエゴイストでしかない。
「だから、そんな苦しいものを肯定されたって何の説得力もないし、お前にぼくの気持ちなんかわかるか! って思うわけ」
いつかの少年とのやりとりを思い出し、自分はまったく的外れなことを言っていたのだな、と何とも耳が痛くなった。
「あのときあんたがもっと正論を持ち出してたら、ぼくは死んでたね」
「じゃあ、何故君は死ななかった?」
「その前に助けられちゃったからだよ」
単純明快な答えを口にした少年は、やれやれ、とでも言うように肩をすくめてみせた。まあ、確かにそれが一番の理由だろうな、とあの日のことを振り返る。
「あのとき、宙ぶらりんになってこわかったから、ただ単純に死にたくないって思ったんだ。頭では死にたいって思ってても、やっぱり本能っていうか、死に対する恐怖はあるんだよね。んでもって、あとは、あんたが声をかけてくれたから」
「……ぼくが?」
「そう。『君は今でも本当に死にたいと思っているのか』ってね。こわかったけど、ああ聞かれなかったら、そのまま落ちてた可能性もあったと思う」
少年は冗談半分で言ったのだろうが、ぼくはその一言で背筋がぞっと凍る思いがした。ぼくがあのとき声をかけて手を差しのべていなければ、少年は死んでいたかもしれない。ぼくが救えなかった多くの「彼ら」のように。
では、声をかけたけれど、死んでいった「彼ら」は、どうすれば助けられたのだろうか。――わからない、わからない。そもそも、ぼくには「彼ら」を救うことができるのだろうか?
「でも、もう一人の刑事さんは、あんたと違ってぼくのことなんかどうでもよかったみたいだけど」
「え?」
「だって、自殺しようとしてる人間に『死にたきゃ死ねよ』なんて言う人、普通いないだろ? 死んでほしいと思われなかっただけましだけどさ。いや、あれは死んでほしいって思われてたのか?」
「そんな、ことは……」
ない、と言い切れるだろうか。自殺志願者の気持ちもわからないけれど、きっと彼はそれ以上にわからない人物だと思う。何年も一緒に、しかもこんな部署にいるのに、この前初めて彼が自殺志願者だと知ったなんて、相棒失格だろう。
でも、彼のわずかな過去を知った今、これだけは言えるはずだ。
「多分、彼は君が本当は死にたくないということを、わかっていたんだと思う」
あんな汚い言葉が出たのは、少年に嫉妬したからではないだろうか。自分はまだ死ねないのに、少年はこれから死ぬと言っている。自分は死にたくてたまらないのに、死ぬ度胸も勇気もない少年は死んでやるとわめいている。それでは、彼が怒るのも無理はないだろう。
「そうかもね。ああ言われても、結局自分では飛び降りれなかったわけだし」
「いや、それでよかったんだよ」
「そうかな」
「そうさ。君は生きていてよかったと思っているから、今そんなに笑っているんだろう?」
「……うん、まあね」
「ぼくも、君が生きていてくれて本当によかったよ」
「……うん」
しばしの沈黙のあと、少年が缶ジュースを一気に口に流しこみ、すっくと立ち上がったかと思うと、カコン、という高い音が響いた。見れば、少年は少し遠くにあったゴミ箱のほうを向いて小さくガッツポーズをしている。多分、あそこに投げて見事入ったのだろう。
すると、少年がくるりとこちらを振り返り、にっと明るい笑みを浮かべた。
「きっとさ、ちゃんと立ち直れたら、あんたみたいに正論で諭してくれる人も必要なんだと思うよ。自殺したいときは思考力が低下してるって聞くけど、当たってるね。助かってしばらくしたら、正論はやっぱり正しいんだってわかったし」
「……そうか?」
「うん、多分」
「多分?」
「うーん、絶対?」
「曖昧だな」
「絶対なんて言えないよ。ぼくだって、あのときは絶対死んでやるって思ってたのに、今はこうして生きてるしね」
「確かに」
ぼくも、「彼ら」を絶対に助けられるわけではない。現にここ最近は負け続きだ。それでも、「彼ら」を助けたいと思う気持ちだけは、「絶対」なのだ。
ぼくは絶対に「彼ら」を助けたい。ただ、それだけだ。だったら、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「さて、ぼくはそろそろ帰るよ。ジュースおごってくれてありがとね」
「いや、こちらこそありがとう。君と話したおかげで悩みが解決したよ」
「へえ、そりゃあよかった。ていうかこんなことで解決できるなら、大した悩みじゃなかったんじゃないの?」
「いや、そんなことは……」
「あんたは深く悩むよりも、自分のやりたいように行動したほうがいいと思うよ。それでぼくみたいに助けられた人もいるんだし」
そう言って少年は歩き出したので、そのまま帰るのだろうと思っていると、彼はまたくるりと振り返り、
「ありがとね!」
と叫んで今度は本当に帰っていった。その顔には、満面の笑みが浮かんでいて。あの少年は本当に生きていてよかったと思っているのだな、と実感すると同時に、彼が助かってよかったと心から思った。
「ぼくのほうこそありがとう」
小さくなった少年の背中にそうつぶやいて、ぼくも帰るべく立ち上がった。
「彼ら」を助けられるかどうかはわからない。だけど、ぼくは「絶対に」彼らを助けたいのだ。だから、誰に何を言われようと、ぼくはこれからも「彼ら」の自殺を止める。