07
彼を殴った次の日から三日間、ぼくは休暇をもらうことにした。彼に言われたから、という理由もあるが、ただ単純に混乱する頭を休めたかったからだ。こんな仕事なので、精神的に参ってしまう人も多く、辞職も含めてそういうのを防ぐためか、すんなり休暇を取ることができた。
上司には「珍しいな」なんて言われたけれど、思えば確かにぼくはほとんど休暇を取っていなかったことに気付いた。その分、ぼくはどれだけの「彼ら」を殺してきたのだろうか――ああ、ダメだ。結局後悔ばかりしている。ここで立ち止まっているわけにはいかないのに。もっとたくさんの人を救わなければいけないのに。
(そもそも、君には理解できないだろう?)
ぼくには、理解できない。ぼくには、誰かを救えない。ぼくには、誰かを殺すことしかできないのか――?
「あれ? もしかしてあのときの刑事さん?」
「え?」
「刑事」という言葉につい反応して、振り返る。するとそこには、
「ぼくのこと、覚えてる?」
少し恥ずかしそうに自分を指さす、学生服の少年が立っていた。
「――ああ」
忘れるはずがない。ぼくは、今まで関わったすべての「彼ら」を憶えている自信がある。思いとどまってくれた人も、死んでしまった人も、全部。ぼくという人間は、それによって構成されているのだから。
だけど、こちらに駆け寄ってきた少年に対してそう言う前に、ぼくは別の言葉を口にしていた。
「……きてた……」
「え?」
「生きてた……」
「は? 当たり前じゃん。って、うわ! あんた何で泣いてんの?」
少年に言われて、初めて自分が泣いていたことに気付く。涙なんて、ここ数年流したことがなかったのに。
「負けた」とき、哀しくないわけではないが、思えば「負けた」からといって泣いたこともなかった。きっとそれは、哀しさよりも悔しさが大きかったからだと思う。だけど、それもぼくが「彼ら自身」よりも「仕事」を優先させた結果なのだろう。
ぼくはただただ申し訳ない気持ちでいっぱいで、こみ上げてくる涙を止めることができなかった。
「えーと……とりあえず、あっちで座って休む?」
その声にはっとして顔を上げると、少年が苦笑していた。その指が示す先には、公園のベンチ。ぼくは腕で涙を拭い、「ああ」とうなずいた。
* * *
「大丈夫?」
「ああ、急に泣いたりしてすまなかったな」
「いや、別にいいけど。刑事なんて大変そうな仕事だしさ。あ、これありがとね。いただきます」
少年はお礼を言うと、プシュ、と手に持っていたジュースの缶を開けた。ぼくが落ち着くまで、二人分の飲み物を買ってきてもらうよう頼んでいたのだ。
ぼくも先ほど受け取ったコーヒーの缶を開け、一つ大きく息を吐いた。
「元気だったか?」
「見てのとおり、結構元気だよ」
「……そうか」
にっといたずらっぽく笑った少年は、目に見えて明るく、そしてたくましく成長していた。その笑顔を見られただけで、ぼくは彼を助けることができて本当によかったと心から思う。
「ていうかさ、さっき『生きてた』って言ったじゃん。何、ぼくがあのあとまた自殺しようとしてたとか思ってたわけ?」
「あ、いや、それは、その……」
「ひっでぇなあ。あんたが助けたんだろ?」
そうだ。確かにぼくはこの少年も含め、少ないながらも何人もの人間の自殺を止めてきた。
だけど、助けるだけでそのあとは何もしなかった。だから、その後彼らがどうなったかということは、ほとんど知らなかったのだ。そんなの、無責任ではないだろうか。
「君は、何故生きているんだ?」
「は? 生きてちゃ悪いのかよ」
「いや、そうじゃなくて――言い方が悪かったな。何故君は自殺まで考えたのに、あのあと生きていられたんだ? 何故生きていようと思ったんだ?」
いきなりこんなことを言われたら、ぼくだって困るだろう。しかし、少年は何を言っているんだこいつは、みたいなカオをしながらも、ぼくの必死さに同情したのか、あごに手を当ててうーん、と考え始めてくれた。真一文字に結ばれた口が開くのを、ぼくはじっと待つ。そして、
「そうだなあ、この命はぼくのものだけど、ぼくだけのものでもないってわかったからかな」
「……どういうことだ?」
「あの日、あんたに助けてもらったあと、当然家に帰ったんだけどさ、ドアを開けた途端、父さんに殴られたんだよね」
「……それは、災難だったな」
「理由も聞かずに殴られたもんだから、ぼくも頭にきて殴り返そうとしたわけ。そしたら、一緒に待ってた母さんが泣き出しちゃって、よかったね、とか言うんだよ。いや、ぼくは殴られてるし、全然よくねぇよって思ってたんだけど、生きてるから殴り合いできるのよ、って言われちゃってさ。それで改めて、ぼく、生きてるんだなあって実感したら、涙が出てきてさ、そのまま玄関で三人して泣いちゃったんだよ」
照れくさそうに語る少年は、あのときとはまったく違う、穏やかな表情を浮かべていた。
「よかったな」
「うん。だから、ぼくの死を哀しんでくれる人が二人も――あんたも入れれば三人か。それだけいてくれるのなら、ぼくはまだ死んじゃいけないんじゃないかなって思ったんだよね。そんな理由だけど、悪い?」
「まさか。むしろ素晴らしいじゃないか。ご両親を大切にな」
「ふん、言われなくても」
少年はほんのりと赤く染まったほおのまま、缶ジュースに口をつけた。そして、ふう、と一息つくと、真っ直ぐな目をこちらに向けてきた。
「で? あんたは何で泣いてたわけ?」
この状況に、何だか前とは立場が逆転しているようだ、と思い、自然と苦笑いがこぼれる。
しかし、ここで少年と再会したのも何かの縁かもしれない。年下の少年に相談することをいささか情けなく思いつつも、ぼくは胸の内を吐露することにした。
「ぼくは、自信がなくなってしまったんだ」
「自信?」
「ああ。ここ最近、ずっと死なれてばかりなんだ。だから、この仕事に向いてないんじゃないかと悩んでいる」
「ああ、確かに向いてないかも」
「……どのへんが?」
「だってあんた、正論しか言わないんだもん」
「正論」――相棒と同じことを指摘され、ドキリと心臓が跳ねる。
「やっぱり、それは逆効果なのか?」
「当たり前じゃん。何も自殺するときじゃなくても、たとえば普通に喧嘩してるときだって、正論言われたらムカつくだろ?」
「そうか?」
「あー、あんたは正論を言われたら、自分が悪かったって素直に認めちゃうタイプか……でも、そうじゃない人もいるんだよ。ていうかあんたみたいな人のほうが少数派だと思うよ」
呆れたようなため息とともに指摘され、そうなのか、と素直に感心した。自分としては、他人と何のズレもないと思っていたのだが――ああ、そういうところがダメなのかもしれない。他人がみんな自分と同じだと思ってはいけないのだ。
そう思ってぼくがまた反省していると、少年は先を続けた。
「死んじゃいけないとか、命を大切にしろとか、そんなの誰だってわかってるんだよ。じゃあ、何で死んじゃいけないのか、っていう答えがほしいんだよね」
「え?」