05
「あなたには、生きる意味があるかしら」
澄んだ声で、彼女は残酷なことを聞いた。
「すぐには思いつかないな。君にはあるのか?」
「あったらこんなところにはいないわよ。そうでしょう?」
「ああ、そうだな。できれば、こちらに来てほしいんだが」
「それは無理なお願いね」
「だろうな」
さも当然だとでも言うように、毅然とした態度で彼女の言葉を受け入れたのが意外だったのか、ずっとこちらに背中を向けていた彼女は少し驚いたようなカオで振り向き、しかしすぐにくすくすと笑い出した。
「ふふ、あなた、変な人ね」
「よく言われる。……君、笑うな」
後方からもくつくつという笑い声が聞こえてきたので、彼女に注意を払いつつもちらり、とそちらを一瞥すれば、ぼくの相棒が愉快そうに笑みをこぼしていた。ぼくのことを笑うのはいいが、今、この状況はまったく笑えない。何故なら、ぼくは今日も自殺しようとしている人間を止めようとしているのだから。
もちろん自殺しようとしているのは、先ほどからぼくが会話を交わしている少女で、自殺志願者の決まりごとなのか、彼女も屋上のフェンスの外側で座っていた。高すぎて聞こえてこないけれど、きっと下は騒ぎになっているだろう。もしかしたら、高すぎて見えない――いや、見ていないかもしれないけれど。人間は赤の他人に対して、野次馬か無関心かのどちらかだ。
すると、再びフェンスの外側に顔を向けた彼女の声が耳に入ってきた。
「自殺志願者に生きる意味なんてないわ。しいて言うなら、死ぬために生きているの」
「そんなの、哀しくはないか」
「哀しくなんてないわ。自殺志願者にとって、いえ、これはわたしの個人的な意見だから、安易に一般化することはできないけれど、わたしにとっての一番の苦痛は、生きていることだもの」
声は明るくても、こちらに背を向けている彼女が本当はどんな表情をしているのか、ぼくにはわからない。――そして、その考えも。
「ぼくには、理解できない」
「いいのよ。理解してもらおうとは思っていないもの。でも、そちらの彼は理解できるんじゃないかしら」
ふと、彼女が振り向く。その視線はぼくをすり抜け、後方に佇む相棒に向けられていた。ぼくには理解できなくて、彼には理解できる、ということはつまり、ただ単に彼のほうがぼくよりも有能に見えるという意味なのだろうか。あるいは、
(もしぼくがここから飛び降りるって言ったら、君はどうする?)
あるいは、まさか彼も彼女と「同じ」だというのか? 彼も、彼女と同じ、自殺志願者だと。彼も、死にたいと思っているのだと。
「ねえ、あなたはどう思う?」
にこり、どうしてこれから死のうという人は、そんなふうに笑えるのだろうか。そんなにこの世が嫌いか? そんなに死ねるのが嬉しいのか?
――わからない。きっとぼくには一生理解できないままだ。だけど、だからこそぼくは自殺を止めるのだろう。
「そうだね。ぼくには理解できるよ」
「じゃあ、どうしてあなたは生きているの? わたしにはそれが理解できないわ」
「そんなの簡単さ。ぼくにはまだ、生きてやることがあるからだよ」
「へえ、興味深いわ。それが何か聞いてもいいかしら」
「別に構わないよ。君もよーく聞いていてね」
カツン、という足音で、考え事をしていた頭が現実に引き戻される。気付けば、いつの間にかぼくのトナリまで来ていた彼が、こちらをのぞきこんでいた。彼はぼくと目が合うと、にっこりと満面の笑みを浮かべ、またカツン、カツン、と足音を響かせながら彼女に近づいていく。
ぼくは彼女が飛び降りてしまうのではないかと焦ったが、どうやら今、彼女にその気はないようだ。まあ、せっかく自分が興味を持ってした質問なのだから、答えくらいは聞こうということなのだろう。
やがて、彼はぼくと彼女のちょうど真ん中くらいの位置で立ち止まり、口を開いた。
「ぼくは、とある男に復讐をする。それが終わるまでは、残念だけど死ねないんだ」
それは、あまりにも高らかな宣言で、あまりにも明確な犯行予告だった。その復讐の内容が犯罪行為だとは限らないけれど、彼ならやりかねないと思ってしまう。
「刑事が復讐だなんて、穏やかじゃないわね」
「ははっ、確かに」
「でも、それだけ強い想いなのね。自殺志願者が生きるのは、本当につらいことなのに。その復讐の内容が気になる――」
「残念だけど、――……」
カツン、彼がぼくよりも彼女のほうに歩み寄った瞬間、びゅうう、と強い風が吹いた。そのせいで、何かを言いかけた彼の声が聞こえなくなる。まるで、ぼくとそちらの二人を断絶するかのように。
「――この意味、君ならわかるよね?」
再び彼の声が聞こえたとき、その先にいた彼女は何故か瞠目していて、しかしすぐにふっ、と薄い微笑みを浮かべた。その表情の変化が妙に引っかかったけれど、その理由はわからない。
そうこうしているうちに、彼がくるりと振り向いた。
「さて、もういいかな? ぼくはそろそろ帰りたいんだけど」
「君、何言って……」
「そうね、わたしもそろそろ死にたいわ」
「待て、君にはまだ話が――」
また外側を向いて、すっくと立ち上がる彼女。しかし、ぼくと彼女を見渡すように身体の向きを変えた彼は、何も言わない。なあ、どうして君はそうなんだ。君は何のためにここにいる? 彼女を助けるためじゃないのか? 君は彼女の気持ちが理解できるんだろう? ならば、何故助けてやらない。
いや、理解できるからこそ何もしないのか。だって、彼もまた自殺志願者だったのだから。彼はその復讐とやらが終わったら、死ぬ気なのだ。彼にとっても、この世界は苦痛でしかなかった。だから、同じ気持ちの彼女を死なせてやったほうがいいと考えているのかもしれない。
だけど、そんなの、――そんなの、ぼくにはやっぱり理解できない。
無力感に襲われながらも、ぼくは拳をぎゅ、と握りしめ、何か言えることはないかと必死で考えていた。ギリリ、と歯を食い縛る音が軋む。刹那、また澄んだ声が聞こえた。
「ねえ、そちらのあなた」
ゆっくりと顔を上げれば、こちらを向いた彼女がぼくの目を真っ直ぐに見据えていた。
「……ぼくか?」
「ええ、そうよ」
「何だ」
「あなたが声をかけてくれたおかげで、最後に初めて有意義な時間が過ごせたわ。どうもありがとう」
にこ、とキレイに笑う彼女。助けたあとにお礼を言われたことはあったけれど、ぼくは彼女をまだ助けていない。これはきっと最後のあいさつなのだ、と直感し、嫌な汗が背中を伝う。
「ただ、一つ心残りもあるけれど――これが『未練』という感情なら、存外悪くはないわ」
「未練があるなら、死ぬな」
「残念だけど、それも無理なお願いよ」
眉を下げ、彼女は困ったように笑った。その表情は、出逢ったときよりもずいぶん人間らしく見える。だけど、どうして、その「未練」は君を「生」には導いてくれないのか?
すると、彼女は彼のほうに視線を移動させ、またにこ、と微笑んだ。
「そちらのあなた、復讐が成功するといいわね」
「ありがとう」
「先にあちらで待っているわ。あなたがこちらに来たときには、是非復讐の話を聞かせてちょうだいね」
「ああ、もちろん」
「ふふ、楽しみにしているわ。それじゃあ」
「待っ……!」
サヨウナラ。
仰向けに崩れてゆく彼女の姿が、視界から消える。けれど、ここは高すぎて、彼女が地面に叩きつけられたであろう音も、下にいる人々の悲鳴も、ぼくの耳には届かなかった。
下で誰かが巻きこまれていなければいいのだけれど、と、どこか他人事のように思うぼくの傍らで、彼は冷たく、不気味な笑みを浮かべていたのだった。