08
「君、バカなことはやめ――え?」
バン! と、とあるビルのドアを開けて屋上に飛びこむと、ぼくの目に映ったのは、想像していたのとは違う風景だった。しかし、絶句する状況であったことに変わりはない。何故なら、
「君……」
「やあ、結構早かったね」
そこには、数人の人間がいた。一人は、ぼくの声に反応して、ゆっくりと振り向いた精神科医の友人。もう一人は、にこり、と晴れやかな表情で顔を上げた相棒。そして、最後の一人は――
「何で……」
「何で? ああ、『彼女』のことかな」
思わずこぼれたぼくのつぶやきには主語も述語もなかったけれど、彼は何のことを言っているのか理解してくれたようだ。それもそのはず、ぼくの求めていた答えは、彼の腕の中にあったのだから。
「先生……刑事さん……」
絞り出すように弱々しい声を上げたのは、そこにいる友人の患者で、恋人でもある少女だった。その彼女が、何故か相棒の腕の中にいる。しかも、その頭には拳銃を突きつけられて。
「何をやっている。銃を下ろせ」
「断るよ」
即答した彼の瞳は頑なで、そして、本気だった。その冷たい目のせいで背中に嫌な汗が流れたが、ぼくは何とか平常心を保ちながら再度口を開いた。
「どうして、彼女なんだ」
「愚問だね。これがぼくの復讐だからだよ」
「復讐は、彼にするんじゃなかったのか」
「そうだよ。だから今、『彼に対して』復讐をしているじゃないか。ぼくの復讐の対象は、確かに彼だ。だけど、彼に直接危害を加えるとは言っていない」
にやり、と口角を上げて、悪魔のように微笑む彼。やはり、ぼくは口では彼に勝てないらしい。いや、ただ単にぼくの思考が浅はかで貧相なだけかもしれないけれど。
しかし、だからといって、彼女に危害が加えられるのを見過ごすわけにはいかない。ぼくはもう一度同じ質問を口にした。
「どうして、彼女なんだ。彼女は関係ないじゃないか」
「関係ないわけないじゃないか。彼女は彼の恋人なんだろう? つまり、彼にとって彼女は、少なくとも他人よりも大切だってことだよね。ぼくが『彼女』に抱いていた感情と同じだってことさ」
「あ……」
そうだ、彼はすでに復讐の方法をほのめかしていたではないか。目には目を、歯には歯を――そして、「死には死を」と。
「だから、これは復讐だよ。大切な人を亡くす哀しみを、大切な人が殺される苦しみを、君も味わうといい」
憎悪のこもった瞳が、ぼくの前方でへたりこんでいる友人を射抜く。自分に向けられたものではないにもかかわらず、背筋にぞくりと悪寒が走った。
いつだったか、「死にたきゃ死ねよ、くそ野郎」と、自殺しようとしている少年に暴言を吐いたときには驚いたが、あれは本気ではなく、彼にまだ生きる気があったのを感じとり、逆説的に言ったものだとぼくは信じている。
しかし、今はどうだ。殺されそうなのは彼女のはずなのに、悪意は真っ直ぐと友人に向かっている。しかも、それはどこか殺意に似ていた。きっと彼は、彼女を復讐の道具としか考えていないのだ。そうして彼は、友人を精神的に殺そうとしている。
「彼女を、離してください」
悲痛な懇願をする友人を、侮蔑の目で見下ろす彼。その口から紡がれる言葉もまた、どこまでも無慈悲だった。
「ぼくが君の言うことを聞くと思うかい?」
「……いいえ。でも、殺すならぼくを殺してください。それが『彼女』を殺した償いになるのなら、ぼくは何でもしますから……!」
「それじゃあ、ダメなんだよ」
友人が驚いたように顔を上げた先には、彼の少し哀しげな笑顔があった。しかし、それはすぐに影を潜め、またそれまでのような意地の悪い笑みが浮かぶ。
「自殺で一番つらいのは、誰だかわかるかい?」
「それは、自殺した本人では……」
「違う。一番つらいのは、残された人たちさ。自殺した本人は、確かにそれまでは苦しかったのかもしれないけれど、死ぬことによって、その苦しみから解放されるんだ。君も見てきただろう? この世界が嫌で死んでいった『彼ら』を」
「……ああ」
同意を求める問いが今度はぼくに向けられ、ぼくは低くうなずいた。ぼくが助けられなかった何人もの「彼ら」の記憶が、走馬灯のように駆け抜けてゆく。
「だから、一番つらいのは、残された人たちなんだ。ある人はどうして、と嘆くだろう。またある人は自分のせいで、と悔やむだろう。それはね、全部『未練』なんだよ」
「未練」――それは彼の大嫌いな言葉だった。そして、それを残して死ぬ人間も。
「自殺した人間が残した遺書やその動機も、もちろん『未練』だ。だけど、彼らは『残された人』という最も大きなものを残している。そしてその『未練』は、残された人に受け継がれる」
ああ、きっと次に彼はこう言うはずだ。
「『未練』はね、自殺する側だけのものじゃないんだよ」
言っていることはいつもと同じだったけれど、その口調は今までで一番穏やかだった。それはきっと、彼自身が「残された人」であり、「未練」を受け継いだ人間だからなのだろう。
「ぼくは『未練』が大嫌いだ。『彼女』が自殺したことよって、ぼくを苦しめる『未練』が。だから、今度は君がその『未練』を背負う番だよ。それが、君の償いだ」
彼は、罪は「償わせるもの」だと言った。自分の犯した罪と同じだけのことを、そのままやり返してやればいい、と。だけど、本当にそれでいいのだろうか。
確かに友人は、自分の犯した罪を償うべきだと自覚していたけれど、これが本当に償いになるのだろうか。自分の犯した罪の償いに、自分以外の誰かが犠牲になる。そんなのは、間違っているのではないだろうか。
「さて、もうそろそろいいかな? さっさと復讐を実行して、早く帰りたいんだけど」
「ふざけるなよ」
「ふざけてなんかいないさ。ぼくは至って本気だよ。部外者は口を出すな」
「その部外者を呼んだのは君だろう」
「ぼくは、君に復讐を見届けてほしかっただけだよ。だから、君はそこで静観してくれるだけでいい」
「それこそ、断る」
「だよね。だけど、黙らないのなら、今すぐ彼女を殺すよ」
ぐ、と銃口がより強く彼女のこめかみに食いこむ。そんなふうに脅されては、ぼくは口を閉じるしかない。
「さて、最後に言い残したことはあるかい?」
「やめて、ください……殺すならぼくを」
「それは却下。何もないなら、そろそろお別れだね」
にこり、場違いな笑みを浮かべる彼に、ぼくも友人も何も言えなかった。ダメだ、このままでは彼女が――
「殺したければ、殺せばいいじゃない」




