04
ひゅうう、と風が吹く。普通よりも高いところにいるせいか、地上よりも強くそれが当たった。ここは、とあるタワーマンションの屋上だった。
「待て、落ち着け」
「おかしなことを言うな、君は。私は至極落ち着いているよ。頭は冷静そのものさ」
そう答えた男性の声はとても穏やかで、その言葉通り、落ち着いた雰囲気をまとっている。それだけで判断するならば、確かに至って「普通」の状態だと言えるだろう。
しかし、
「なら、そこから離れてこっちへ来い」
彼が立っている場所は、とても「普通」とは言いがたいところだった。何故なら、彼が立っているのは、ぼくがいるタワーマンションの屋上の、高いフェンスの外側なのだから。
「ああ、君は私に『死ぬな』と言いたいのか。でも、それは無理なお願いだ」
「何故だ」
「私が死ぬことは、決定事項だからさ。君が何を言おうと、この決心は変わらない」
「何がそんなにあなたを死に向かわせる?」
「そうだな、幸福かな」
「幸福?」
今から自殺する人間の口から出たとは思えない単語をつぶやいて、男性はゆっくりとこちらを振り返った。そのカオは声と同じくとても穏やかで、微笑みさえ浮かんでいる。この状況で、彼は何故、そんなにも冷静なのだろうか。何故、そんなふうに笑えるのだろうか。――いつかの、彼女と同様に。
しかし、この男性の笑みは、あのときの彼女とはまったく違う。彼女の笑顔は狂気に満ちていたけれど、彼の笑顔にはその欠片が微塵もない。本当に普通の人が普通に笑うようにして、ただ穏やかに微笑んでいるのだ。なあ、何故だ。
「私はね、それはそれは素晴らしい人生を送ってきたんだ。愛する妻と子供がいて、仕事でもそれなりに出世した。私は世界一の幸せ者だろうな」
「だったら、余計に理解できない。何故そんな素晴らしい人生を自分で終わらせようとするんだ」
「だから、だよ」
「は?」
だから、と言われても、今までの会話の中のどこに彼が自殺する理由があっただろうか。ぼくには、彼がただ幸せな人生を送ってきただけにしか思えない。
「私はもう十分幸せなんだ。思う存分、人生をまっとうしたんだ。だから、私は死ぬ」
(この世でやりたいことはやったから、後悔なんて何もない。ぼくは自分の人生に満足したんだ。だから、死にたい)
最近どこかで聞いたはずの、同じようなセリフが頭をよぎる。そういえば、彼がそんなことを言っていたっけ。あれはただの冗談だったけれど、今、目の前で起こっていることもそうだとはとても言えない。あのとき、ぼくは何と言って彼を止めた?
「……残された家族はどうするんだ」
「それなりに財産は残したつもりさ。子供たちはもう成人しているし、妻もきっと私のことを理解してくれるはずだ」
ふふ、とやさしそうな笑みを浮かべる彼は、きっといい夫であり、父親でもあったのだろう。それなのに、何故そんなことを言うんだ。そんなの、
「ぼくには、理解できない」
にらむようにして彼の目を真っ直ぐに見据え、きっぱりと断言すると、彼は困ったように眉を下げ、肩をすくめた。まるで、君には理解できないだろうね、と嘲るように。そして、理解できないなんてかわいそうに、と憐れむように。
理解なんて、できない。したくない。ぼくは彼の家族のことなんてこれっぽっちも知らないけれど、彼の言っていることは、あくまで「理解してもらえるはずだ」という予測、あるいは希望でしかない。
「それで構わない。私は君に理解してもらおうなんて、これっぽっちも思っていないからね。さあ、話はこれで終わりだ。私は死ぬ」
「待て」
「我が人生、死して悔いなし」
「待っ……!」
彼は満足げにそう告げ、手を広げたかと思うと、ぼくが止める間もなく真っ逆さまに地面へと墜ちていったのだった。
がしゃん、とフェンスにぶつかるようにして下を覗きこめば、彼は豆粒のように小さくしか見えなかった。しかし、その周りにじわじわと広がってゆく紅い液体が、嫌でも彼の死を確定づけ、ぼくにそれを突きつけていたのだった。
* * *
「やあ、大丈夫かい?」
しばらくして、ようやく喧騒が耳に入ってきたとき、聞き慣れた声も一緒に耳に入ってきた。人を気遣うような、しかし、この場にはそぐわない、明るい声が。
ゆるり、と頭をめぐらせれば、そこにはやはり場違いな笑顔を浮かべたぼくの相棒が立っていた。
「遺族がもうすぐ到着するってさ」
「……そうか」
遺族。彼が自分のしたことをわかってくれるだろうと信じていた人たち。
彼らは、本当にこの状況を受け入れることができるのだろうか。「あの理由」から導き出されたこの結果を、納得できるのだろうか。もし彼らが哀しんだら、彼はどうするつもりだったのだろうか。
いや、この問いかけは間違っている。だって、彼はもう死んでしまったのだから。死んだ人間が生きている人間にできることなんて、一つもない。できるのは、せいぜいあの世で待つことくらいだ。ただ、あの世があるのかどうかも確かめようがないのだけれど。
「君は、幸せを理由に自殺したいと思うか」
唐突に口にした言葉。しかし、彼は何かを悟ったのか、困ったように眉を下げながら微笑した。
「普通は思わないだろうね。だけど、そこが幸せの絶頂なら、有り得なくはないんじゃないかな」
「幸せの絶頂?」
「そう。悪く言えば、人生の限界かな。どんなに幸せでも、それがいつまでも続くことなんて絶対に有り得ないだろう? 特に、定年間近の中年男性が絶望するなんて、よくある話じゃないか」
「でも、彼にそんな素振りはなかった」
「君に、ついさっき出会ったばかりの人間の何がわかるっていうんだい? 彼の言ったことがすべて正しいとは限らないし、ましてや彼の本心なんてわかるわけないだろう?」
「それは、そうだが……」
確かに、それなりに長い付き合いである相棒の彼のことでさえよくわからないのに、たったあれだけの時間であの男性すべてを理解することなど不可能だ。
だけど、理解はできなくても、わかることはある。
「でも、ならば彼は不幸だから死んだんじゃないか」
そうだ、彼は幸せだから死ぬと言っていた。人生にもう満足したから死ぬのだと。
でも、目の前にいる彼の予想が正しいのだとしたら、彼は人生に絶望して死んでいったのだ。この先、これ以上の幸せは望めないと悟って。幸せだから死ぬなんて大嘘だ。むしろ、まったくの正反対ではないか。
「確かにそうかもね。でも、たとえばガンで余命があと少ししかない人に対しても、それと同じことが言えるかな?」
「何故そんな例が出てくる?」
「きっとそれと同じだからさ。彼は自分の人生を見限った。つまり、自分で自分の寿命を決めたんだよ。あとは坂を転がり落ちるだけだと気づいたとき、彼は確かに絶望したかもしれない。だけど、死ぬ日を決めてしまえば、その日まで絶頂を保つことや、悔いなく生きることは可能だ。それこそ、ガンで余命が決まっている人と同じようにね。そうやって、彼は自分の人生に満足して死んでいったんだよ。多少の未練はあったかもしれない。だけど、生きるのも死ぬのも全部自分で決めて、自分のすきなように生きて、死んでいった。それが幸せじゃないなら、何だっていうんだい?」
確かに、彼は幸せだと言っていた。その口から紡がれた言葉からも、その顔に浮かべられた微笑みからも、幸せがにじみ出ていた。遺族に対する想いでさえ、希望に満ちあふれていた。
幸福が原因の自殺。幸福のための自殺。ぼくは、これを認めることができるのだろうか。