04
「その『彼ら』が誰を指していたのか、正確にはわかりませんが、おそらく君の相棒――さっきの彼は、そのうちの一人だと思います」
「何故そう言える?」
「『彼女』は自分で言っていたように、天涯孤独でした。だから、持っていたケータイのアドレスに登録されていた全員が警察署に呼び出されたんです。そこにいたのはぼくと、彼女が高校を卒業するまでいた施設の園長先生。それから、同じ施設で親しかったという少女。そして、先ほどの彼だけでした」
事情聴取といっても、状況からしてほとんど自殺と断定できたので、何か原因を知らないか、といった確認のようなものだった。
最後の番だったぼくが帰ろうとしたとき、彼は玄関付近のベンチでまだ座っていた。おそらく、ショックで動けなかったのだろう。ぼくは、『彼女』の周りの人間まで傷つけてしまったのだ。
そう思ったけれど、何と声をかけていいのかわからず、そのまま前を通り過ぎようとしたとき、いきなり肩を掴まれて無理やり振り向かされたかと思うと、左ほおに衝撃を受けた。気付いたときには床に尻もちをついていて、遅れて鈍い痛みが訪れる。
そのとき、ようやく彼に殴られたのだと気付いた。ゆっくりと顔を上げれば、彼は息を荒くして、肩を上下に震わせている。
「――君が、彼女の担当医だって?」
「……はい。昨日初めてお会いして……結局、それが最初で最後の診察になってしまいました」
「彼女は、どんなことを言っていた?」
「……絶対に生きなければならない意味がわからない、と」
「へえ、つまり彼女は生きてる意味がわからない、って言ってたわけだ」
「そう、ですね」
短い時間ではあったけれど、彼女とはほかにも命の重さだとか生の実感だとか、ほんの少しだけれど宗教や神様の話もした。だけど、結局彼女が一番話したかったのは、今、彼が言ったように「生きる意味」についてだったのだろう。
「それで? 君は彼女に対して何て言ってあげたの?」
その質問で、もう一発殴られたような気分になった。ぼくは、彼女に何と言ってあげられたのだろうか。ぼくは、ぼくは――
「何も、言えませんでした」
そうだ、真面目に「生きる意味」なんて考えたことのなかったぼくは、彼女の言うことを理解できずに、何も言ってあげることができなかった。いや、「言ってあげる」だなんておこがましい。ぼくは、ただ何も言えなかったのだ。
かろうじて伝えられたのは、「ぼくはあなたがいなくなったら、哀しいです、よ?」という、頼りない疑問形の言葉だけ。情けなくて涙が出そうだ。
「ふざけるなよ」
先ほどまでの感情を押し殺したような声から一転して、怒気のこもった低い声が聞こえたかと思うと、いつの間にか屈んでいた彼にぐっと胸ぐらを掴まれた。ぱちり、と交錯する視線。彼の目は、燃えるような憎悪に満ちていた。
「あんた、精神科医なんだろ? 何で彼女の気持ちがわからなかったんだよ。何で何も言ってあげられなかったんだよ。何で、何で――」
セリフが進むにつれて、彼の声が震えていくのがわかった。それと同時に、ゆるゆると垂れていく彼の頭。胸ぐらを掴む手も小刻みに震え、彼が涙を流しているのだと思った――刹那。
「何で、彼女を殺したんだよ」
ゆらり、と上げられた顔は、先ほどと同じく、いや、きっとそれ以上の憎悪にまみれていた。ああ、彼は哀しみで震えていたのではなく、抑え切れないほどの怒りで震えていたのだ。
ぞっとするほど冷たい視線は間違いなくぼくに向けられているはずなのに、ぼくはまたそれをどこか他人事のように感じていた。相変わらず、ぼくは傍観者でしかない。
「ぼくは絶対に君をゆるさない」
「……ゆるされるとは、思っていません」
「何だい? そのわかっています、みたいな態度は。君は何もわかっていないよ。ぼくのことも、彼女のことも」
彼の言い分はもっともだ。だけど、彼も彼女も、一回しか会っていない人間のことをどう理解すればいいというんだ。彼女だって、相手のすべてを理解するなんて不可能だと言っていたじゃないか。
そんなぼくの秘めたる不満に気付いたのか、彼はぼくを押すようにして乱暴に手を離し、立ち上がった。
「彼女は、ぼくにとって唯一の大切な人だった。彼女はぼくの『生きる意味』だったんだ。それなのに、君はそれを奪った。だから、」
在りし日の想い出を愛おしむような表情はすぐに消え、また憎悪の目でこちらを見下ろす彼。
「だから、ぼくは君に復讐する。今はしないよ、まだいい方法を思いついていないからね。君は、ぼくが復讐を実行する日まで、自分の犯した罪の大きさを知って苦しめばいい」
「罪……?」
「そうさ。だって、君は人殺しなんだから」
蔑むように言って浮かべられた彼の嘲笑と、「罪」そして「人殺し」という重い言葉。
そのときふと浮かんだのは、ぼくが唯一言ってあげられた言葉を発したときの情景だった。
(ぼくはあなたがいなくなったら、哀しいです、よ?)
(――『彼ら』も、そう思ってくれるでしょうか)
その「彼ら」が誰を指すのかはわからない。もしかしたら、ぼくを憎悪の目で見下ろす彼もそのうちの一人なのかもしれない。
だけど、わかっているのは、彼女は「彼ら」にそう言ってもらって「生きたかった」ということだ。ぼくは、そんな彼女を殺してしまったのだ。
「あ、あ……!」
ようやく事の重大さと、自分が当事者であるということに気付き、頭を抱えて声にならない声を上げる。
「もし誰かが君をゆるしたとしても、ぼくは絶対に君をゆるさない。君には死よりも苦しい罰を与えてあげるから、楽しみに待っていてね」
彼の恐ろしい言葉は確かにぼくに届いていたけれど、ぼくはもう、何も言い返すことはできなかった。ぼくはただ、去っていく彼の足音を聞きながら、涙を流していたのだった。




