03
あの日の『彼女』の真っ直ぐな目を、ぼくは忘れることはないだろう。
「わたしには、絶対に生きていなければならない理由がわかりません」
「え?」
「どうしてわたしたちは、生きなければならないのですか? わたしたちは、何のために生きているのですか?」
「ちょちょちょ、ちょっと待って、落ち着いてください。そんなに一気に質問されると困ります」
「ああ、すみません」
『彼女』は素直に謝ると、ぼくを真っ直ぐに射抜いていた視線を下げた。
『彼女』は精神科医であるぼくの、最初の患者だった。自殺志願者ではないものの、どうやら「生の実感」というものがないようで、生きている意味がわからない、と診察の冒頭から何度もくり返していたのだ。
――今ならこんなふうにわかるけれど、当時はよく、わからなかった。だから、ぼくは内心またか、と思いつつ口を開こうとすると、彼女のほうが先に話し出した。
「先生、命が大切だなんて、誰が決めたのでしょうか」
「え?」
「地球より重い命だなんて言われても、地球がなければわたしたちは存在していなかったのだから、地球のほうが重いに決まっています」
「た、確かにそうですね。で、でも、神様からもらった大切な命でしょう?」
「神様? あいにくですが、わたしは無宗教なので、神様を信じていません。よって、わたしの命はわたしのものです。わたしがわたしの命をどうしようと、誰にも文句を言う権利はありません」
「そ、そう、ですね……」
口下手なぼくは、彼女の理路整然とした主張に弱々しく同意することしかできなかった。それでも、何か打開策はないかと足掻いてみる。
「で、でも、もしあなたがいなくなったら、哀しむ人がいるんじゃないですか?」
「いませんよ。わたし、天涯孤独なんです」
「すみません……」
「いえ、先生が謝る必要はありません。今日初めてお会いしたのですから、今までの会話だけで相手のすべてを理解するなど、到底不可能です」
ぼくが脳みそをフル回転させてようやく見つけた言葉をさらりとかわし、彼女はふ、と微笑んだが、その笑顔はどこか哀しそうに見えた。これは、遠回しに突き放されているのだろうか。そう思うと、少し淋しい――ああ。
「えっと、ぼくはあなたがいなくなったら、哀しいです、よ?」
何故か疑問系になってしまったことを悔やんだが、彼女はわずかに瞠目し、口に手を当てて少し考えるようなポーズをとったあと、ぽつりとつぶやいた。
「――『彼ら』も、そう思ってくれるでしょうか」
「え?」
「いえ、こちらの話です。ところで、先生がそうおっしゃってくださったのはありがたいのですが、わたしにはやはり、生きる意味がわからないのです」
「うう、そうですよね……」
そうして話は最初に戻ってしまい、それ以降、ぼくは彼女の望む返答ができないまま、その日の診察は終わってしまった。次に彼女が来るときには、もう少しいい返答ができるようにしよう――そう、誓ったはずなのに。
その日の夜、彼女は死んでしまった。
もしかしたら、ぼくが彼女を殺したようなものかもしれない。だって、ぼくは彼女の気持ちを理解できずに、彼女を救うことができなかったのだから。
そういえば、ずっと無表情だった彼女のカオがわずかに変化したときにつぶやいた『彼ら』とは誰だったのだろうか――。
今でも、『彼女』の真っ直ぐな瞳をはっきりと憶えている。話すときは必ずぼくの目を見ていた『彼女』は基本的に無表情だったが、わずかな哀しみと驚きだけはわかった、気がする。生きていれば、もう少し見分けられるようになっていたのかもしれない。
『彼女』が死んだあの日以来、ぼくは罪の意識に苛まれ続けてきた。あのとき『彼女』の質問にきちんと答えられていたのなら。もう少しいいことが言えたのなら。そう思わずにはいられなかった。




