01
「よいしょ、っと」
フェンスを乗り越えて安全圏へ戻れば、大学時代の友人で、刑事でもある彼が呆れたような、しかし笑顔で迎えてくれた。
「まったく、君まで向こう側に行ったときはどうなるかと思ったぞ」
「迷惑をかけてすみません。でも、今日は本当にありがとうございました」
「いや、ぼくは何もしていない」
「いえ、十分助けてもらいましたよ。君はやっぱりこの仕事に向いているんだと思います」
「そう、だろうか」
「ええ。これからも頑張ってくださいね」
「ああ、君もな」
不安と照れくささが入りまじったような複雑な笑みを浮かべた彼に手を差し出し、握手を交わす。一度決めたことは最後までやり通す彼が辞めようとした仕事だ。人の生死に直接関わることは、本当にきついのだろう。だから、今度はぼくが彼の力になれたらいいと思っている。
「あの、お騒がせしてすみませんでした」
ぼくの一歩後ろにいた彼女が、おずおずと前に出て頭を下げた。それを見た彼はふ、とやさしい笑みを浮かべ、
「いや、ぼくも君に死んでほしくなかったから、助かって本当にほっとしているよ。これからも彼のことをよろしくな」
と言った。それに対して、彼女も「はいっ」と笑顔で元気よく答える。
そして、誰もがそろそろ帰ろうかと思った、そのとき。
「あれ、もう終わったの?」
彼の背後――屋上の入り口付近から聞こえた声に視線を向ければ、一人の青年が気だるそうに頭をかきながら、こちらに歩いてきた。
「遅いぞ、君。無事助かったよ」
「へえ、そりゃあよかった。さすが君だね。じゃあ、さっさと帰――」
彼のトナリまで来た青年と、ぱちりと目が合う。今までの会話からして、おそらく彼の仕事の同僚なのだろうと予想できる。
いや、でも、そういえばこの人どこかで――そう思った瞬間、その青年にぐい、と胸ぐらを掴まれた。
「お、おい、君!」
「先生!」
「やあ、久しぶりだね。君、ぼくのこと、憶えているかい?」
先ほどの軽やかな声から一転し、圧力をかけるような低い声で尋ねられる。やっぱり、ぼくは彼と面識があったのか。
だけど、どこで? ぼくはこんなに憎悪に満ちた目でにらまれるようなことを、彼にしただろうか――
「……あ」
ただの息なのか、意図的に出した声なのか、自分でも区別しがたかったが、どうやら表情は正直だったらしく、彼には後者だとわかったらしい。彼はにやり、と嘲るような笑みを浮かべた。
「へえ、ちゃんと憶えてたんだね。まあ、当たり前か。自分のことを絶対にゆるさないって言った人間だもんね」
(ぼくは絶対に君をゆるさない)
忘れてはいけないはずなのに、忘れかけていた記憶がよみがえる。ぼくは『彼女』と『あの日』と同様に、目の前で歪んだ笑みを浮かべる『彼』のことも、決して忘れてはいけなかったのだ。何故なら、
「君、いきなり何をするんだ。彼はぼくの友人なんだ、手を離してくれ。それとも、君も彼と知り合いなのか?」
慌ててぼくと彼の間に割って入ってきた友人のおかげで、胸ぐらを掴まれていた手がゆるみ、息苦しさから解放される。確認するように首に手を当てて呼吸していると、彼女が「先生、大丈夫?」と背中をさすってくれた。
「へえ、君の友人か。それに『先生』ってことは、そのコは君の患者なのかな?」
彼女を一瞥した彼の口元は笑っているものの、すぐにこちらに移った視線はぞっとするほど冷たく、ぼくに鋭く突き刺さった。それに不安を感じたのか、背中にあった彼女の手が、ぼくの服をぎゅっと握りしめる。
「ねえ、次はそのコを殺すのかい?」
「え?」
「君、何てことを言うんだ! 彼は今、彼女を助けたんだぞ」
「へえ、助けた? 君が?」
そんなのウソだろう、とでも言いたげなのが、その表情や口調からひしひしと伝わってくる。
――あのときと、同じだ。彼に「ゆるさない」と言われたときと、同じ。そして、ぼくが何も言えないのも、すべてが同じだった。
ただただ怯えた目で彼を見つめていると、彼は何を思ったのかにこり、とキレイに笑い、
「君が死ねばよかったのに」
と言い放った。歌うように、軽やかに。
その瞬間、がくり、と膝が折れ、ぼくはその場に崩れ落ちてしまった。彼から目が離せなかったのは、やはり恐怖のためだったのかもしれない。それでも、何故だかよくわからないけど、ここで視線を外してはいけない気がした。
しかし、彼はぼくを見下ろすと、それ以上は何も言わずにくるりときびすを返し、去っていってしまった。
「あ、おい、君!」
そう叫んだ友人の声も、彼には届いていないようだ。
ぼくは小さくなってゆく彼の背中を、あの日と同じようにただ見つめることしかできなかった。




