03
「おい、何やってるんだ?」
「え? 自殺する人の気持ちってどんな感じなのかな、と思って」
問いかけたぼくに背を向けたまま、彼はそう答えた。
「危ないから下りろ」
「嫌だね」
やはり振り返らずにきっぱりと断った彼――ぼくの相棒は、今、屋上の高いフェンスの上に腰かけている。しかも、外側に足を出して。少しでもバランスが崩れれば、真っ逆さまに落ちて、確実に死ぬだろう。ぼくは呆れたようにはあ、とため息をこぼしたが、内心でははらはらしていた。
そんな冷静を装ったぼくを見透かすように、ようやくこちらを振り向いた彼はにこり、と微笑んだ。
「さて、ここで君に質問です。もしぼくがここから飛び降りるって言ったら、君はどうする?」
「止めるに決まっているだろう」
「さすが君。それが仕事だもんね。じゃあ、それでもぼくが死んでやるって言ったら?」
「理由を聞くだろうな」
「アタリ。君は相変わらず真面目だね」
にこ、と笑ってぼくを評価する彼は、飄々としていてどこかつかめない男だった。とある女性に目の前で自殺されてしまったぼくを慰めてくれるやさしいところがあるかと思えば、今から飛び降りると言った少年に「死にたきゃ死ねよ」などと暴言を吐いてみたり、妙に冷めた目で現実を見ていたりするところもある。
思えば、彼は初めて逢ったときからそうだったな――そんなことを考えていると、彼がまた言葉を紡いだ。
「じゃあ次。もしその理由が、この世界に嫌気がさしたから、とか、生きる意味がないから、とかだったら君はどうする?」
「生きる意味なんて、これからさがせばいいだろう? 世界だって、いつかは良くなるかもしれない」
「いつかっていつ? これからさがして本当に見つかるのかな? ヘリクツかもしれないけれど、反論はいくらでもできるんだよ。こんなお先真っ暗な世の中で何を信じられるんだ、ってね」
確かに、一度死ぬと決めた人間を説得するのは難しい。特に彼のように口が達者な人間は、その口から出る言葉がヘリクツだとわかっていても、逆にこちらが納得させられてしまうこともある。
それでもどうにか答えを考えていると、ぼくよりも先に彼が口を開いた。
「じゃあさ、逆にこんなのはどうかな? ぼくが死にたい理由は、この世に満足したからだ、ってね」
「は?」
思わず出てしまった間抜けな声。顔もそれ相応の表情になっていたのだろう、彼はそれこそ満足げな笑みを浮かべた。
「それは、どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。この世でやりたいことはやったから、後悔なんて何もない。ぼくは自分の人生に満足したんだ。だから、死にたい。さあ、君はこれを論破できるかい?」
それは、ぼくにとって初めての理由だった。今まで出逢った人は――それが最終的に死んでしまった人であれ、助けることができた人であれ――みんなこの世での「苦しみ」が原因だった。
それなのに、彼はこの世での「満足」を理由に死のうというのだ。そんな人の自殺に、ぼくは口出しができるのだろうか。そもそも、口出しする権利があるのだろうか。本人が満足しているのなら、それは大往生と同じではないだろうか?
彼に後悔も未練もないのなら、別にそれでも構わないのでは――「未練」?
「なあ」
「何だい?」
「これは、『君』がそういう理由で死のうとした場合、なんだよな?」
「うん、そうだよ。何か反論を思いついたのかな?」
「――ああ」
少し間を置いて、しかしはっきりとうなずけば、彼はわずかに瞠目したものの、すぐに口角を上げて先を促した。
「へえ、じゃあ教えてよ。君はどう対応するんだい? こんな未練もなく、キレイに死んでいこうとする人間にさ」
「『未練』は、あるだろう?」
「え?」
「君はいつも言っているじゃないか。『未練は自殺する側だけのものじゃない』ってな。君がこの世に満足して『未練』がなくても、君が死んだらぼくには『未練』が残るんだ」
それを聞いた彼の目が、今度は完全に大きく見開かれる。
「……じゃあ、さっきは答えることができてなかったけど、ぼくがこの世界が嫌で死のうとしたら、君はどうするの?」
「確かに未来は信じがたいものだ。だけど、未来がどうなるかなんて、誰にもわからないだろう? だから、君の生きる意味だっていつかは見つかるかもしれないし、何ならぼくが一緒にさがしてやろうと思う」
「はは、君は相変わらずの偽善者だね」
「ぼくはただのエゴイストだ。君が死んだらぼくが哀しくて嫌だから、死んでほしくないだけさ。だから、さっさと下りてこい」
フェンスに座る彼に手を差しのべれば、彼はふっと薄い笑みを浮かべ、ガシャン、と音を立てて、一人でフェンスから下りてきた。もちろん、その内側に。
行き場のない手をゆっくり引っこめていると、彼は、んーっと背伸びをしてからこちらを向いて、にっ、といつものような明るい笑顔をよこした。
「これはあくまで仮定の話だけどさ、君がそう言ってくれて嬉しかったよ」
「ああ、君は『未練』を残す人間が嫌いだからな」
「アタリ。――だから、ぼくは――」
「え? 何か言ったか?」
「いや、何も? さ、戻ろうか」
そうしてぼくたちは仕事場へと戻っていき、彼のつぶやきだけが屋上に残されたのだった。