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エゴと未練の贖罪  作者: 久遠夏目
第三章 その理由じゃ救えない
28/44

07

「はあ……」


 憂鬱だ。昨日は泣いた上に、最悪な過去の記憶を思い出したせいで、頭が痛い。しかも、あんなことを言ってしまった手前、彼と顔も合わせづらいし、今日は有給を使うか。

 ――いや、ダメだ。それでは、彼の言葉を肯定しまうことになる。


(そんなのむなしくない?)


 わたしは生きるために仕事をする。生きるために生きている。生きているから、生きているのだ。それを否定することは、すなわち「わたし自身」の存在の否定になる。わたしは、『彼女』が肯定してくれたわたしを、絶対に否定したくない。


「――よし」


 冷たい水で顔を洗い、ぱしん、と一発ほおを叩いて気合を入れる。せっかく早起きしたんだし、散歩でもしながら出勤するか。


       * * *


 ――そう思って出かけたものの、普段寄り道なんかしないものだから、自然と真っ直ぐに仕事場へと足が向いてしまい、結局いつもより早く仕事場に着いてしまった。仕方ない、屋上で時間でも潰すか。

 そうして屋上へ向かうと、意外にも先客がいた。引き返そうと思ったときにはもう遅く、ドアを開けた音に反応してこちらを振り向いたその人と目が合ってしまった。あれ、この人――


「おはよう。早いんだな」

「……おはようございます。ちょっと、早く目が覚めてしまって」


 気さくに話しかけてきたこ男性は、わたしの相棒である彼が憧れて、一緒に働くことを目標としている『あの人』だった。

 しかし、わたしは数回見かけたことがあるだけで、会話したのはこれが初めてだったので、少しなれなれしいなと思ってしまった。彼のほうが先輩だから、そんなことは間違っても口には出さないけれど。

 しかし、どうしたものか。ここから会話が広がるとは思わないが、かと言って、すぐに引き返すのも失礼だろう。本当にどうしようか――


「ちょっと話をしないか?」

「……え、どうしてですか」

「どうして、と言われると困るんだが、しいて言うなら始業まで時間があるから、だろうか。君もそうだろう?」

「……まあ」

「じゃあ、そこに座っていてくれ。ぼくは飲み物を買ってくる」

「いえ、わたしが買ってきます。何がいいですか」

「ありがとう。じゃあ、コーヒーを頼む」

「わかりました」


 わたしは軽くうなずいてきびすを返し、階下にある自動販売機へと向かった。

 何だ、あの人。あんな新手のナンパをするような人だったのか。まあ、あの人としては部下を誘うような感覚で言ったのかもしれないし、たったあれだけの会話で人を判断するのはよくないか。それに、時間があるのは事実だし、相棒のおかげで聞き手に回ることも慣れている。うん、きっと大丈夫だ。

 言い訳じみたよくわからない自信を胸に、ガコン、と出てきたコーヒーを取り出す。続いて自分の飲み物も買い、わたしは屋上へと戻った。


       * * *


「お待たせしました。どうぞ」

「ああ、ありがとう。これ、代金」

「あ、すみません」

「嫌じゃなかったら、ここに座ってくれ」

「じゃあ、失礼します」


 提示された場所――彼のトナリに腰を下ろす。この人なりに気を遣っているつもりなのだろうが、逆に怪しい気もする。やっぱり、よくわからない人だ。


「えーと、急に話しかけてすまない。驚いたよな」

「はあ、まあ。でも、そちらはご存知ないと思いますが、わたしはあなたのことを知っていたので」

「いや、実はぼくも君のことを知っているんだ」

「え?」

「失礼ながら名前までは知らないんだが、いつも『彼』と一緒にいるだろう?」


 『彼』とは、おそらくわたしが思い浮かべている人物で間違いないだろう。わたしがこの職場で「いつも一緒にいる」男性は、一人しかいない。


「彼のこと、憶えているんですね。よく話すんですか」

「いや、たまにすれちがったときに少し会話を交わすくらいだな。でも、ぼくが助けた中でここに就職したのは、今のところ彼一人だから、嬉しくてな。つい気にかけてしまうんだ」


 穏やかに言葉を紡いだ彼のカオは先ほどよりもやわらかく、唇はゆるやかな弧を描いていた。「あ、今笑ったかな?」というレベルの表情の変化ではあるが、『彼女』に比べればかなりわかりやすいほうだ。


「それ、彼に伝えてあげたらとても喜ぶと思いますよ。彼、異動してあなたと一緒に仕事することを目標にしているらしいですから」

「そうか、楽しみしていると伝えてくれ」

「わかりました」


 こくり、とうなずけば、彼はまた嬉しそうに微笑んだ。とりあえず、少し話はつながったようだ。ある意味彼に感謝すべきかもしれないな、と内心ほっとしながら飲み物を口に運ぶと、彼がぽつりとつぶやいた。


「でも、それはつまり、彼は今の仕事が不満だということだろうか」

「……確かに、毎年異動願いは出しているようですが、彼は自分の仕事をきちんとこなしています。もちろん不本意な気持ちも少なからずあるとは思いますが、それを放り出すことはしません。目標はあくまで目標であって、今の仕事にもやりがいを感じている、とこの前言っていました」

「そうか、それならよかった。ありがとう」

「……いえ」


 「あくまで目標」などという少し失礼な言い方をしてしまったにもかかわらず、何故かお礼を言われてしまい、戸惑いを覚える。もしかして、これが以前彼の言っていた、この人の「機械的ではない何か」なのだろうか。

 よくわからないむずかゆさに襲われ、それをごまかすためにわたしはもう一度飲み物を口に運んだ。しかし、まだ始業までには時間がある。彼の話で引っ張ることはできるだろうか――と考えた、そのとき。


「君は?」

「はい?」


 再び彼から声をかけられたので慌てて振り向くと、彼は真剣な表情でこちらを見つめていた。


「君は、この仕事が楽しいか?」


 そしてそれは、つい昨日の彼のような真っ直ぐな瞳だった。




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