06
わたしには、父親がいない。母親は若い「未婚の母」だった。
おそらく一番古い記憶は、母親が結構な頻度で家に男を連れてきたということと、数ヶ月ごとにその人物が変わっているということ。わたしは母が男を連れてくるたびに、ずっと真っ暗な押入れの中にいた。聞こえてくる母親の猫なで声、シャワー音、そして、気持ちの悪い喘ぎ声。思い出すだけで吐きそうだ。
一人の男を相手にしてしばらく経つと、母親は子持ちでバツイチの若い女はどう思うか、と相手に尋ねる。もちろん、自分がそうだとは決して言わず、あくまで知り合いの話だという設定だったが、大体の人は決まって「そんなの有り得ない」と切り捨てた。
ごく稀に、そういうのもありなんじゃないか、と言う人がいて、そういう場合にのみ、ようやくわたしの存在が明かされたのだが、いざわたしを目の当たりにすると、やはりダメだと思ったのか、はたまた情事を聞かれていたという恥ずかしさが勝ったのかは知らないが、全員逃げていった。
はたから見れば、わたしを受け入れてくれる人さがす「いい母親」なのかもしれないけれど、わたしにとってはそうではなかった。何故なら、付き合っている最中でも、逃げられたあとでも、恋人が帰ってわたしが押入れから出てくるたびに、決まってこう言うからだ。
「あんたなんか、産まなきゃよかった」
「あんたなんか、生まれてこなければよかったのに」
蔑むような口調で吐き捨てられることもあれば、目に涙を浮かべて感情たっぷりに嘆かれることもあった。ああ、ヒステリックに叫んでいたこともあったっけ。どちらにせよ、言うことはいつも同じだったけれど。
それが、幼いわたしに「自分はいらない子なんだ」と思わせるには十分だっただろう。だけど、子供のころは「死」という概念がまだわからなかったので、死にたいと思うことはなかったし、実際に自殺するということもなかった。
それに、最初こそ哀しかったものの、自分は「いらない子」だという思いが肯定的になってくると、すべてがどうでもよくなってきた。だから、小学校高学年ごろになったある日、バカの一つ覚えみたいに同じことを言ってきた母親に対して、わたしはこう言ってやったのだ。
「わたしだって、産んでくれと頼んだ覚えはない。わたしだって、生まれてきたくなんかなかった。そんなこと言うなら、何でわたしを産んだの? オカアサン」
最後に鼻で笑ってやれば、ぱしん、と一つほおを叩かれた。もしかして、さすがに言ってはいけないことを言ったから、彼女は怒ったのだろうか?
ひりひりと痛むほおに手を当てながら、ゆっくりと母親のほうに顔を向ける。その目に涙が浮かんでいるのを期待――したわたしが愚かだった。
「あんたなんか、死ねばいいのに……!」
母親の目には確かに涙が浮かび、怒ってはいたものの、それはわたしが期待していた「母親としての怒り」ではなく、「わたしからの侮辱に対する怒り」だったのだ。
その瞬間、わたしは悟った。この人と「家族」になることはもう不可能なのだ、と。そして、わたしは本当に「いらない子」だったのだ、と。
次の日、わたしは児童養護施設に連れていかれた。どうやら母親と職員がもめているようだったが、母親が勝ったらしく、わたしはその日からそこで暮らすことになった。おおよそ、急な来訪だとか経済状況だとかで文句を言われていたのだろう。
以来、母親とは一度も会っていないし、今どこにいるのかもわからない。もちろん、わかったとしても、顔を見たくもないけれど。
そうして、わたしは児童養護施設で暮らすようになったのだが、前述のような母親のせいで先生たちにもあまり歓迎されておらず、それを敏感に感じとったほかの子供たちにもバカにされた。ここでも、わたしは「いらない子」だった。
せめて自分を守ろうと身につけたのは、言葉だった。手を出すと面倒なことになるとわかっていたので、口だけでは誰にも負けないよう、図書室で色んな本を読んで語彙や知識を身につけた。しかし、その過程で、乱暴ではないものの、何故か男性口調になってしまい、当時はショートヘアだったことも相まって、よく「男女」とからかわれた。
今思えばくだらないと一蹴できるけれど、腐っているなりにも多感な時期だったし、口では負けないつもりだったのに、それが仇となって何も言い返せなかったのが悔しくて、情けなくて、哀しかった。
わたしにはこれしかないし、これがわたしなのに。せっかく手に入れた「新しいわたし」も否定されて、やっぱりわたしは「いらない子」でしかないんだ――
「わたしは、すきだよ」
施設の図書室の奥の奥、おそらく誰も来ないだろうと踏んで、自分だけの隠れ家のようにしていた場所で膝を抱えていると、そんな声が聞こえてきた。一瞬幻聴かと思い、驚いて顔を上げれば、視線の先には一人の女ノコが立っていた。
あれは確か三つ年上の高校生だ。わたしが施設に入るずっと前からいて、この施設では最年長だったと記憶している。とてもキレイな人で存在感はあるけれど、口数は少なく、他人と常に一定の距離を保っている不思議な人だ。今まであいさつくらいしかしたことがなかったわたしとしては、少しこわいくらいの印象すらあった。そんな人が、何でわたしに? というか、彼女は今、何と言った?
心の中で浮かんだ疑問を彼女が知るよしもなく、彼女はわたしの目を真っ直ぐに見据えながら、こちらに向かって歩いてきた。そして、わたしの目の前で止まると、すっと屈んで視線の高さを合わせてくれた。
「別にあなたはそのままでいいと思うよ。言葉遣いや見た目が男ノコみたいだって、その通りじゃない。見たまま、聞かれたままを言われているだけで、あなたがそれを恥じる必要はない。だって、それが『あなた』なんでしょう? 今度同じことを言われたら、『だから何?』って言ってごらん。きっと相手は何も言い返せないから」
彼女は一気にそれだけ言うと、静かに去っていった。何が何だかよくわからなかったけれど、わたしはとても救われた気がした。彼女にありのままの「わたし」を肯定されたことで、わたしは初めて「自分」を肯定することができたのだ。
次の日、いつもと同じパターンでからかってきたやつらに「だから何?」と言ってやると、彼らはそれ以上何も言えずにぐっと押し黙り、やがて「何だよバーカ!」と噛ませ犬のような捨てゼリフを吐いて逃げていった。
彼女の言うとおりになったのがおかしくて、でも、こんなにすっきりしたのは久しぶりだった。母親に反論したときよりも清々しい。自分を肯定できると、人はこんなにも強くなれるのだろうか。わたしの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
その夜、彼女にお礼を言うと、「そう」と一言だけの返答に拍子抜けしたが、彼女はきっとそういう性格なのだろうと勝手に納得した。わたしが「わたし」であるように、きっとこれが「彼女」という人間なのだ。
それ以降、わたしは少しずつだが彼女と話すようになり、今思えばくだらないことばかり相談していたけれど、そのたびに彼女は的確なアドバイスをくれ、わたしは彼女を姉のように慕うようになっていった。
数年後、彼女は大学に合格し、高校卒業と同時に施設を出ていってしまったが、連絡先を聞いて手紙のやりとりをしたり、月に何度か遊びにいったりして、施設にいたころと同じような関係が続いていた。
でも、彼女がわたしに笑顔を見せてくれることは一度もなかった。それはわたしに限ったことではないけれど、だからこそ、本当は一人でいることがすきで、わたしを鬱陶しいと思っているのではないだろうか、と不安になることもあった。
「あなたが必要なかったら、とっくに離れているよ」
しかし、聡い彼女はわたしの不安に気付いてそう声をかけてくれた。彼女の言葉は、いつもわたしを肯定してくれる。だから、わたしも自分を肯定できるのだ。
わたしはもっと彼女に近づきたくて、必死で勉強し、彼女と同じ大学に合格した。そのお祝いだと言って、彼女はアルバイト代でケータイを買ってくれた。
そして、四月。これからまた彼女と一緒にいられるんだと思うと、とても嬉しかった。だけど、その幸せは長くは続かなかった。
ある日、突然家にやってきた彼女が、玄関先でこう尋ねてきた。
「あなたは、わたしが死んだら哀しい?」
どうして彼女がそんなことを聞いたのかはわからない。だけど、それに対するわたしの答えは、一つしかなかった。
「当たり前だ」
はっきりそう答えると、彼女はふ、とやわらかい笑みを浮かべた。それは、他人からすれば微笑に過ぎないのだろうけれど、わたしにとっては初めての、そして一番の彼女の笑顔だったと思う。その後、彼女は「ありがとう」とお礼を言って、すぐに去っていった。
そして、その日の夜、彼女は死んだ。自殺だった。
簡単ではあったが、葬儀など、すべてが終わったあとにメールを見返していると、何に対しての返信だったのかは覚えていないが、彼女からの最後のメールには「あなたなら大丈夫」というメッセージが書かれていた。
『彼女』は、最後までわたしを肯定してくれた。だけど、わたしは『彼女』を肯定することができたのだろうか。




