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「え?」
こんなにも驚いた表情を見せる彼女は初めてだった。それだけ、ぼくの言葉が衝撃的だったのだろう。しかし、ぼくはそれとは対照的に穏やかな表情を浮かべ、先を続けた。
「だって、あなたが先に死んだら、ぼくも哀しいですから。一緒に死ねば、どちらかが苦しむ必要はないでしょう?」
「……ふふ、それもいいかもね」
「おい、君たち……!」
「でも、」
心中されてしまうのではないかと思ったであろう彼がフェンスの向こうで声を荒げたが、ぼくはすっと腕を上げ、手のひらで制止を促した。これは、ぼくと彼女の問題だ。ここでは、ぼくが「当事者」なのだ。
「ぼくは、あなたに約束しましたよね。一緒に生きる意味をさがしましょう、と。ぼくはまだ、それを見つけていませんよ」
「それ、は……」
「確かに、ぼくがあなたより先に死んでしまうことはおそらく不可避でしょう。でも、そのときまで一緒に生きることはできます」
「でも、それは先生の生きる意味が見つかるまでってことでしょう? 先生の生きる意味が見つかったら、もう一緒にはいられないよ」
「どうしてですか? ぼくとあなたは恋人じゃないですか」
「恋人」という単語がさらりと出てきて自分でも驚いたが、彼女はそれ以上に驚いていたようで、ぱっと顔を上げた。しかし、すぐにまたうつむいて、ぽつりとつぶやく。
「でも、それはわたしを生かすためでしょ? だから、先生は本当はわたしのことなんかすきじゃない」
「そんなこと、ありませんよ」
「ウソだ」
「ウソじゃありませんよ」
「そんなの聞きたくない!」
そう叫んで、彼女は自分の耳を両手で塞いでしまった。今まで自分が彼女のためを思ってしてきたことが、本当は自分の保身のためであり、そのせいでどれだけ彼女を傷つけてきたのかを、改めて痛感する。全部、彼の言うとおりだった。
だけど、ぼくはここで引くわけにはいかない。ぼくはゆっくりと彼女に近づき、細い手首を掴んで耳から引きはがした。
「確かに、最初はあなたを死なせまいとして告白を受けました。でも、何度もデートを重ねて色んな話をするたびに、付き合うってこういうことなんだな、という実感がわいてきたんです」
しらじらしく、ウソくさい言葉だと自分でも思う。彼女もそう思っているのか、そっぽを向いたまま口を真一文字に結び、黙っていた。
こんなぼくをすぐに信用することなんてできないだろう。だけど、ぼくはもう「傍観者」でいることはやめた。遅すぎるかもしれないけれど、少しずつでいいから、彼女の中に踏みこむ努力をしたい。
「今まで一緒に過ごしてきて、楽しかったのはウソではありません。だから、ぼくはあなたと一緒にいたいと思ったのです。あなたが楽しいとぼくも楽しいし、ぼくはこれからもずっとその笑顔を見ていたいと思っているのです」
これは、懺悔か、決意か。よくわからないけれど、ぼくの口から出た言葉は、すべて本音だった。ぼくは、これからも彼女と一緒にいたい。生きる意味をさがすことを抜きにしても。
「知っていますか? 本当の愛は、相手を生かすんだそうです。あなたが本当にぼくのことをすきだというのなら、ぼくを死なせないでください。ぼくはまだ生きていたいです。できれば、あなたと一緒に」
ああ、ぼくはきっと彼女のことがすきなのだ。一人の人間として、女性として。
「だから、お互いを生かし合って、これからも一緒に生きていきませんか?」
「……先生、ずるいよ。そんなこと言われたら、死ねないじゃない。わたしが先生を殺せるわけないでしょう? 先生は、わたしの『生きる意味』なんだよ。それを自分から手放せるわけないじゃない……!」
ようやくこちらに顔を向けた彼女は目を真っ赤に腫らし、大粒の涙をこぼしていた。ぼくは思わず彼女の手首を握ったままだった手に力を入れ、自分の胸に引き寄せる。
「ごめんなさい。ぼくのせいでこんなにあなたを追いつめてしまいました。でも、ぼくはあなたに死んでほしくなかった。それが、ぼくのエゴだとしても。本当にごめんなさい。ごめんなさい……!」
ぎゅ、と彼女を抱きしめた腕が震える。声もかすれ、目からは彼女と同じように涙が流れていた。それに気付いたのか、ぼくの背中に回った彼女の手が、ぽんぽん、とそこをやさしく撫ぜる。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。先生の重荷になってるって気付いてたけど、そうするしか方法がわからなかったの。本当に、本当にごめんなさい」
高い屋上の静寂の中、ぼくと彼女のささやかな泣き声が響く。そして、だいぶ落ち着いてきたころ、互いに身体を離し、見つめ合った。何だか今さら照れくさくなって、どちらからともなくはにかむ。
「こんなぼくですけど、これからも一緒に生きてくれますか?」
「――はいっ」
二つ返事で破顔した彼女の笑顔を、ぼくはもう二度と失いたくはない。問題がすべて解決したわけではないけれど、それはこれからゆっくりと考えていけばいい。ぼくたちは、これから二人で歩んでいくのだから。




