02
「来るな! それ以上こっちに来たら飛び降りてやる!」
「待て、落ち着け。ぼくは君を助けにきたんだ。少しでいい、話をしよう」
「来るなって言ってんだろ!」
とあるビルの屋上の、柵の内と外。内側である屋上の入り口付近にはぼくがいて、外側には制服を着た少年がいた。「男子学生がビルの屋上から自殺しようとしている」という通報を受けたからだ。
「落ち着いてくれ、何でもいいから話をしよう」
「来るなって言ってんのがわかんないのかよ!」
「まあ待て、今日の給食はきっと美味いぞ。君は何がすきだ? ぼくはな」
「ふざけんなよ。からかってんのか、あんた!」
少年の言い分はごもっともだ。くそ、こんなことしか言えない口下手な自分が情けない。
しかし、来るなと言っているにもかかわらず、ぼくがじりじりと間合いを詰められているということは、少年にはまだ死ぬ勇気がないのだろう。そうでなければ、彼はさっさと自殺しているはずだ。つまり、まだ助けるチャンスはある。どうにか説得して、自殺を止めないと――
そう思っていると、ぼくの横をすり抜けた影が、ゆっくりと少年のほうへ近づいていった。
「な、何だよお前! 来るなって言ってんだろ! 来たら死んでやるからな!」
少年がそう叫んだところで、その人物はピタリと足を止めた。
しかし、次の瞬間、
「死にたきゃ死ねよ、くそ野郎」
と、とんでもない暴言を吐いたのだった。これにはぼくも少年も驚いてしまい、開いた口が塞がらなかった。
そんなことを発言したのは、一緒にここに来ていたぼくの相棒で、本来はこの少年を助けなくてはならない立場にある人物――なのだが。
「さっきからわーわーうるさくて仕方ないんだよね。死にたいなら早く飛び降りれば?」
「な、な……あんたはぼくを助けにきたんじゃないのかよ?」
「何、助けてほしいの? だったら早くその柵をまたいでこっちに来なよ。あ、足がすくんで動けないんだったら、彼が手を貸してくれるからさ」
「は?」
明るい声でそう言いながら、くいっと親指でぼくを示す彼。何を勝手なことを、と思ったが、彼が続けてしゃべり始めたので、それを口にすることは叶わなかった。
「ぼくはやさしいからさ、君の意思を尊重するよ」
動くタイミングを完全に失ってしまったぼくから彼の顔は見えなかったが、彼はきっとまた場違いな笑みを浮かべているに違いない。その推測を裏づけるように、少年は拳をぎゅ、と握りしめると、怒りでぷるぷると震え出してしまった。
「……ふざけるなよ……!」
「は? ふざけてるのはお前だろ?」
ぷつん、と何かが切れしまったかのようなセリフを吐いた彼の声は、先ほどよりもさらに冷たいものだった。少年もそれを感じ取ったのか、呆気にとられたような表情で彼を見つめる。
「君は死にたいんだろ? だからそんなところにいる。だったら、ぼくにそれを止める権利はないよ。さっさとそこから落ちて、死ねばいい」
「ぼ、ぼくは……」
「そこから飛び降りれば、君は晴れてこの世とおさらばできるからいいかもしれないけどさ、こっちはいい迷惑なんよね。君には『未練』なんてなくても、残された人たちや――特にそっちの彼には『未練』が残るんだ。君を助けられなかったっていう『未練』がね」
「未練」は自殺する側だけのものではない――いつか彼はそう言っていた。
そして、彼は次にきっとこう言うのだろう。
「自殺するならさ、誰にも迷惑をかけない、『未練』の残らない自殺にしなよ。こんな目立つところに何十分も突っ立って、大声を上げて。君は、本当に自殺したいのかい?」
「ぼくは……ぼくは……」
「あっ」
そう声を発したのは、ぼくだった。それと同時に全速力で駆け出し、ガシャン、と柵にぶつかりながらも少年の手を掴む。宙に浮いている、少年の手を。彼の言葉に追い詰められた少年は、頭を抱えて後ずさったために、足を踏み外してしまったのだ。
いくら彼が小柄だとはいえ、完全に宙に浮いている身体をぼく一人で引き上げるのは難しい。しかし、相棒である彼は一歩も動かず、冷めた目でこちらを見ているだけ。「あの目」をした彼は、完全に傍観者でしかないとぼくは知っていた。
だから、こうなったらあとは――賭けるしかない。ぼくはぶら下がっている少年に向かって大声で叫んだ。
「っ、君は……君は今でも本当に死にたいと思っているのか!」
そう問えば、彼ははっとしたようにこちらを見上げ、その目にじわりと涙を浮かべた。
「ぼくは……ぼくは、まだ死にたくない!」
「――最初っからそう言えばいいんだよ」
呆れを含んだ声が聞こえたかと思うと同時に、少年の手を掴んでいた腕がふわりと軽くなる。先ほどまでぼくの後ろで傍観していた彼が、少年のもう一方の手を掴んだからだ。彼は、「未練」を残さない人間には友好的なのだ。
そうして、ぼくたちはどうにか少年を引き上げることができた。
「うっ、うっ……ごめん、なさい……!」
「いや、ぼくたちに謝られても困る。ぼくたちは君が自殺しようとした理由を知らないんだから」
「うっ……ひっく」
「だから、ぼくに話してくれないか? 何でもいい。ぼくが、君の『未練』を引き受ける」
「ふっ、うわあああああん」
号泣してしまった彼の背中をさすってやると、後ろからくつくつ、という笑い声が聞こえた。振り向けば、彼が愉快そうに、しかし、どこか嬉しそうに微笑んでいた。