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エゴと未練の贖罪  作者: 久遠夏目
第二章 生きる意味は君と一緒に
18/44

08

「実は君の言うとおり、仕事のことで悩んでいるんです。でも、君の話を聞いたら、もう少し自分で頑張ってみようと思いました」


 すべての「未練」を引き受けるなどと言っている彼のことだ。ここでぼくの悩みを話してしまったら、きっとそれすらも抱えこんでしまうに違いない。

 だから、彼には言わない。ぼくは、ぼくの力で彼女を救ってみせる。


「それで君は大丈夫なのか?」

「はい。でも、もし本当にダメになりそうだったら、そのときは相談させてもらいますね」

「ああ、いつでも連絡してくれ」

「ありがとうございます」


 お礼を言ってから、残りのコーヒーを飲み干す。すると、同じく飲み終わったらしい彼がすっくと立ち上がり、こちらを向いたかと思うと、すっと手を差し出してきた。


「今日は久しぶりに話せてよかったよ」

「ぼくもです。仕事、頑張ってくださいね」

「ああ、君もな」

「はい」


 ぼくも腰を上げてその手を握れば、あたたかい飲み物を持っていたせいか、互いの手にぬくもりを感じた。

 そのあと、一緒に自動販売機の脇にあるゴミ箱に缶を捨てに行き、そこで彼と別れてからケータイを取り出すと、一件のメールが届いていた。見ればそれは彼女からで、内容は――


「、え?」


       * * *


「――どうして、そんなところにいるんですか」

「先生、遅かったね。三十分の遅刻だよ? 相手がわたしじゃなかったら、帰られてたかもね」


 くるり、と振り向いた彼女がにこり、と笑う。その口から出た「帰られてたかもね」という言葉が、「死なれてたかもね」に聞こえて、心臓が止まりそうになった。有り得ない聞き間違いだとは思うけれど、この状況ではそう聞こえてもおかしくないだろう。何故なら、彼女は落ちたら確実に死んでしまう高さにある屋上のヘリに腰をかけていたのだから。

 どうして彼女はそんな状況で笑えるのだろうか。そもそも、どうやってあの高いフェンスを乗り越えたのだろう。ああ、そういえば、元陸上部だから運動神経はいいんだっていつか自慢していたっけ。

 この期に及んで、ぼくの中には焦る気持ちと、この状況を把握する冷静さが混在していた。ぼくは、どこまで傍観者なのだろうか。どうやら彼女がこの状況で笑っていることを、ぼくは責めることができないようだ。

 それでも、ぼくはゆっくりと彼女に近づいていく。それを見ても彼女が動く気配はない。まだ、大丈夫だ。


「遅れたことはもちろん謝ります。だから、こっちに来てもらえませんか?」

「いくら先生のお願いでも、それは聞けないなあ」

「さようなら、って、どういう意味ですか?」


 彼女からのメールにはこう書いてあった。『さようなら。最後に伝えたいことがあるので、病院の屋上で待っています』と。

 だから、ぼくはここに来た。ここ数年で一番の、そして、おそらくもうこの先にはないくらいの全速力で。

 すると、彼女は一度真顔になったが、すぐにまた微笑んで、


「そのままの意味だよ。わたし、これから死ぬの」


 とあっさり言い放った。どうして、そんなことを笑って言えるのだろうか。


「どうしてですか? あなたは自殺したくてリストカットをしたわけじゃないって言っていたじゃないですか。それに、ぼくを『生きる意味』だとも言ってくれました。ぼくは、それが本当に嬉しかったんですよ」

「わたしも嬉しかったよ。ずっとさがしてた『生きる意味』が見つかったんだもん。先生と過ごす時間はいつも楽しくて、先生がいてくれるだけで、わたしは本当によかったの」

「ぼくだってそうですよ」

「でも」


 ぼくの言葉を遮るようにして、食い気味に発した彼女の語気が強まる。その目を見れば、そこには怒り、哀しみ、戸惑いといった、さまざまな感情が入りまじっていた。


「でも、先生にこの前、自分のほうが先に死んだらどうする? って聞かれて気付いたの。わたしは先生の重荷になってるんだって」

「そんな、ことは……」

「だって先生、わたしを残して死ねないでしょ? わたしの命は先生が握ってるんだもんね。先生の言動が全部わたしに直結する。もしわたしが先生の立場だったら、きっと耐えられないよ。自分勝手でごめんね」


 哀しみで揺れる彼女の瞳。その瞳で、ぼくはすべてを見抜かれていたのだ。


「だけど、わたしには先生しかいないの。信頼できる人も、友達も、ほかにはいないし。でも、先生は違うでしょう? わたし以外にも助けなきゃいけない患者さんがたくさんいる。そんな先生に迷惑はかけられないよ。だから、わたしが今ここで死ねば、先生のせいでわたしが死ぬことはなくなるし、先生の気苦労もなくなるでしょう?」


 ぼくはどこまで彼女に気を遣わせれば気が済むのだろうか。どうしていつまで経っても成長できないんだ。ぼくのせいで人が一人自殺しようとしているというのに、どうしてぼくの足は動かない? どうしてぼくの口は何も言えない?

 乾いた口をぱくぱくと動かしていると、彼女がすっくと立ち上がった。反射的に背筋を嫌な汗が伝う。ダメだ、ぼくはまた患者を救えないのか? 『彼女』のような悲劇はもう二度とくり返さないと決めたはずなのに。絶対に目の前の少女を救ってみせると決めたはずなのに。


「じゃあ、伝えたいことはもう全部言ったし、そろそろ行くね」

「ダメです……」

「ありがとね、先生。今まで本当に楽しかったよ」

「待ってください。ぼくはまだ――!」

「ちょっと待ってくれ。もう少し時間をくれないか?」


 背後からの声に振り向けば、少し前に公園で別れた友人がドアから姿を現し、早足でこちらに近づいてきた。自殺をにおわせるメールに焦ったぼくが彼を呼び止め、ついてきてもらっていたからだ。

 結局、ぼくは自分の力では何もできなかったのだった。




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