07
(先生、覚えておいてね。先生がわたしの命を握ってるんだってこと)
(先生がわたしとの『未来』のことを考えていてくれたんだもん)
あの日の彼女の言葉に喜びと一抹の不安を感じながら、しかし、何事も変わらない日々を過ごしていた。おそらく、ぼくはすべてをマイナスの方向に考えすぎる傾向があるのかもしれない。最悪のことを想定するのも大切だけれど、医者という職業についている限り、相手を生かすことを最優先に考えるべきではないだろうか。
だけど、そうやって自分を励まそうとしても、彼女のあのセリフと『彼女』の死が、ぼくの思考に影を落としていた。精神だって病めば死に至る。ぼくも人の命を握っているのだ。
はあ、とため息をつけば、それを嘲笑うかのように冷たい風がほおを撫ぜた。今日は非番の日だったけれど、平日なので彼女に会うことはせず、一人で公園のベンチに腰をかけ、ただただ同じ思考をくり返すだけ。すると、
「あれ? 久しぶりだな、君」
「え?」
ぽん、と肩に手を置かれ、声のしたほうを見上げると、よく見知った、しかし懐かしい顔がそこにあった。
「おや、久しぶりですね。卒業以来でしょうか。よかったら、どうぞ座ってください」
「ああ、その前に飲み物を買ってくるよ。何がいい?」
「そんな……すみません。じゃあ、コーヒーで」
「わかった」
そううなずいて自販機のほうに駆けていったのは、ぼくの大学時代の友人だった。学部は違ったものの、全学部に共通の一般教養の授業で知り合い、好奇心旺盛で色んな分野に興味があったらしい彼とは、空き時間に色んな話をした。
卒業後、彼は刑事になったらしいが、そういえば自殺に関わる珍しい部署に配属されたというメールが送られてきたことがあったっけ。ちょっと、彼女ことを相談してみようかな。彼ならば、信頼できる。
「はい」
「ありがとうございます。いくらですか?」
「これくらい構わないさ」
「そうですか? じゃあ、ありがたくいただきます」
「ああ」
ぼくが缶で手をあたためている間に、トナリに腰を下ろし、自分の飲み物に手をつける彼。やがてぼくも缶を開けた、そのとき。
「今日は非番か?」
「ええ。君もですか?」
「いや、これから職場に戻るところだ。さっきまでビルの屋上にいたんだよ。一年の半分くらいは高いところにいる気がする」
「それは大変ですね。お疲れ様です」
「まあな。でも、それがぼくの仕事だから。ぼくが、ぼくのために彼らの『未練』を引き受けると決めたんだ」
力強い声で言った「彼ら」とは、きっと彼が仕事で対峙している自殺志願者や、あまり考えたくはないが、その遺族のことだろう。
しかし、では。
「『未練』って、何ですか?」
「『未練』は……そうだな、この世に対するすべての感情、とでも言えばいいだろうか。自殺したいと思った原因や、自殺するときにこの世に残したい感情。遺書なんかはその最たるものだな」
「でも、それをどうやって君が引き受けるんです?」
「とりあえず、まずは話を聞く。短いかもしれないけれど、その間は死ぬのを防げるからな。それで自分を客観視できるようになって、冷静になってくれれば、思いとどまってくれるかもしれない。もちろん、もういいやとなって死んでしまう人もいるが」
「そう、ですか。あの、そういう場合はどうするんですか?」
「それも、ぼくが引き受ける。ぼくには『助けられなかった』という『未練』が残るからな。遺族の哀しみや後悔もそうだが、『未練』は自殺する側だけのものじゃないんだ。まあ、これは相棒の受け売りなんだけどな」
毅然とした態度で持論を述べる彼は、学生時代のころから変わらず、真っ直ぐな強い信念で満ちあふれていた。
「君は、強いですね」
「強くなんかないさ。今まで何人もの人を救えなくて、『未練』でいっぱいだよ。ぼくは、何人もの『彼ら』を殺してきたんだ」
最後の言葉に、思わずドキリ、と心臓が跳ねる。ぼくも、一人の人間を死なせたことがあるからだ。だから、ぼくよりも直接、しかも目の前で生死に関わる仕事を続けている彼は、やっぱり強いと思う。
ましてや、その「未練」をすべて引き受けるなんて、ぼくにはできない。ぼくは、やっぱりただの傍観者でいたいのだ。
「でも、つい最近仕事を辞めようと思ったことがあるんだ」
「え?」
自然と垂れていた頭を上げれば、目が合った彼が眉を下げて微笑んだ。どうやらぼくはまた人に気を遣わせてしまったらしい。
「ちょっと負け続きのことがあってな。自分には『彼ら』を救えないと思ったり、相棒から辛辣な言葉をぶつけられたりと散々だったよ。何より、自分のやり方が間違っていたかもしれないというのが一番つらかっただろうか。足場が崩壊したような気分だったよ」
「それで、どうしたんですか?」
「そのとき、以前助けることができた少年に偶然出くわしてな。彼に間違いも指摘されたけれど、お礼も言われた。何より、『生きててよかった』と言われたのが嬉しくて、情けないけれど、泣いてしまったんだ。そして、ぼくも彼を救えて本当によかったと再度思った」
彼は自分が何人も殺してきたと言ったけれど、もちろん救えた人もたくさんいるのだろう。彼は、ちゃんと誰かを生かしているのだ。
そして、その人たちからの感謝は何ものにも変えがたく、計り知れないほどの嬉しさがある。ぼくも、患者からの「ありがとう」という一言はとても嬉しいから、わかるような気がする。
「だから、ぼくはこの仕事を続けるよ。何で助けたんだと罵倒されようが、おせっかいだと嫌われようが、ぼくが自分の気持ちとして、彼らが死ぬのは嫌なんだ」
「君、自信満々に持論を話すところは変わっていませんね」
「ぼくはただのエゴイストだからな」
「エゴイスト」という言葉は、普通マイナスのイメージで使われると思うのだが、彼はむしろ誇らしげなカオをして笑っていた。彼は真面目だが、普通の人とは違った感性を持っているのかもしれない。
そんなことを考えていると、飲み物を一口飲んだ彼が、先ほどとは打って変わって真剣な表情をこちらに向けた。
「で、君も何か悩んでいるのか?」
「え?」
「『彼ら』ほどではないが、君もかなり思いつめた表情をしているぞ」
ぼくの周りには気を遣ってくれる人が多くて、時々申し訳ない気持ちになる。だけど、その好意に甘えたい、すがりたいという気持ちも事実だった。だから、
「実は――」




