06
ぼくと彼女が付き合い始めてから、また数週間が経った。患者、生きる意味、恋人――ぼくと彼女の関係性はいくつもあるけれど、「生きる意味」になったときと同様に、意外と何も変わらなかった。
週に一回診察をして、何週かに一回デートをする。その約束の日まで、彼女は確実に生きていてくれる。いや、きっとぼくが生きているだけで、彼女は生きていてくれるのだ。「生きる意味」なんて、案外そんなものなのかもしれない。そう思ったら、少し楽になった。ぼくはこれらの関係を気負いすぎて、勝手に重荷だと感じていただけなのかもしれない。
だけど、同時に不安にもなった。何故なら、以前頭をよぎった疑問がまたわきあがってくるようになったからだ。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「うん、なあに?」
ある日、診察に来ていた彼女に向かって尋ねると、それがクセなのか、イスに座ってくるくると回っていた彼女がこちらを正面にして動きを止めた。
「あなたは、ぼくを生きる意味だと言ってくれました」
「うん。言ったねえ」
「じゃあ、もし、もしもですよ? もしぼくが死んだら、どうしますか?」
「え?」
「だって、ぼくのほうが十歳近くも年上でしょう? それに、男性のほうが平均寿命は短いですし……もしもの話ではありますけど、可能性としては高いですよね?」
そう、ぼくの最大の不安はそれ――つまり、彼女の「生きる意味」である自分が彼女より先に死んでしまったら、彼女はどうするのか、ということだった。
人が生きる意味になるというのは納得できるし、素晴らしいことだと思う。だけど、それしか生きる意味がなくて、その人にすべてを委ねていたとしたら、その人がいなくなったとき、生きる意味も失ってしまうことになりはしないだろうか。
だから、彼女もそうなってしまうのではないかと不安だった。だけど、きっとこの質問をしたのは間違いだったのかもしれない。何故なら、
「そうだなあ、多分わたしも死んじゃうと思うよ」
自分で自分の首を絞めてしまったと後悔すると同時に、彼女に哀しそうなカオでそんなことを言わせてしまったからだ。
「どうして、ですか」
何と答えていいのかわからなかったぼくは、わかりきったような質問を口にする。そんなの、傷口に塩を塗るだけなのに。
「どうして? そんなの当たり前じゃない。先生がわたしの『生きる意味』だからだよ。先生がいるから、わたしはこうやって生きていられるの。だから、先生が死んだら、わたしも死ぬよ」
じっとこちらを真っ直ぐに射抜く純粋な瞳がこわい、と思った。ぼくの不安や恐怖をすべて見透かされているような気持ちになるからだ。
息が詰まってなかなか声が出ないぼくを置き去りにして、彼女はすらすらと言葉を紡いでいく。
「だから先生、覚えておいてね。先生がわたしの命を握ってるんだってこと。わたしには、先生しかいないんだよ」
ぼくはあんな質問を彼女にしてしまったことを、心底後悔していた。聞くだけ聞いておいてリアクションを用意していないなんて、無責任にもほどがある。
そもそもぼくは、あの質問に対して、彼女に何と答えてほしかったのだろうか。本当は彼女が何と答えるのか、わかっていたのではないだろうか。だって、彼女の「生きる意味」はぼくだ。ぼくには何人もの患者さんがいるけれど、彼女にはぼくしかいないのだ。
ぼくが彼女の命を握っている。それは彼女だけではなく、ぼくの患者さんたちに対しても、いつかの『彼女』に対しても言える、当たり前のことだ。しかし、『彼女』が死んだ日から「傍観者」に徹していたぼくは、そんな当たり前のことからも遠ざかってしまっていたのだろう。それを直接言われることが、どんなに重いことか。
「――なーんてね」
「え?」
茶化すような声に顔を上げれば、彼女は持ち前の明るい笑顔をぱっと咲かせた。
「さっきのがウソだとは言わないけど、そんなに深刻に受け取らなくてもいいんだよ? わたし、重い女にはなりたくないし。まあ、先生が『生きる意味』だなんて言ってる時点で重いよね。ごめんなさい」
姿勢を正したかと思うと、深々と頭を下げた彼女に、ぼくは慌てて手を振る。
「謝らないでください。変なことを聞いたぼくが悪いんですから。ぼくのほうこそ、あなたの気持ちを考えない質問をしてすみませんでした」
ぼくは、どこまで彼女に気を遣わせれば気が済むのだろうか。ぼくが彼女を支えなくてはならないのに、自分の無神経さが嫌になる。ぼくはもう「当事者」なのだから、いい加減成長するべきなのに。
「でもね、わたし、ちょっと嬉しかったんだよ」
「え? 何がですか?」
「だって、自分が先に死んだらとか、男性の平均寿命とか年の差とか、先生がわたしとの『未来』のことを考えていてくれたんだもん」
口に手を当てて、ふふ、とはにかむ彼女は本当に嬉しそうで。しかし、それは彼女の期待に反して、特に何も考えずに出た言葉だった。ぼくはただ、自分が年上であるというだけで、漠然と「いつかは自分のほうが先に死んでしまうのか」と考え、それに伴う不安が肥大化しただけなのだ。
でも、最後には彼女が笑顔になってくれたからよかった、なんて単純に考えてしまうのがぼくの悪いクセだ。自分のことに精一杯で、彼女の本音が見えていないから、あんなことが起こってしまったというのに。




