03
「先生、あのね、人が生きる意味になることがあるんだって」
「人が、ですか?」
身を乗り出すようにそう言った彼女は、少し興奮しているようだった。こう見ると、本当にただの少女なんだな、とわかって微笑ましくなる。
自然とほおがゆるむ中、彼女はキラキラとした目で先を続けた。
「うん。この前読んだ本に書いてあったの。これってすごいことだと思わない?」
「そうですね、そんなふうに考えたことはありませんでした。でも、具体的にはどういうことなんでしょうか」
「たとえば、一家のお父さんは家族のために働いてるでしょ? それから、若いころって恋愛が楽しくって、恋人に会うために学校に行ってるじゃん。だから、それって『誰か』のために生きてるわけで、つまりその『誰か』が生きる意味になってるってことだよね?」
力強く説明してくれる彼女に、ぼくはただただ感心することしかできなかった。彼女は、ぼくなんかよりもずっと精神科医に向いているのではないだろうか。患者同士のほうがわかり合えるというのは当然だけれど、本当はぼくのほうが考えなくてはならないのに、と歯がゆくなることもある。
だけど、これもそうだし、今まで彼女が話してくれたこと、そして彼女と話したことは、すべてぼくにとって勉強になっているのだ。こういうことを通して、ぼく自身も成長していかなければならない。
「まあ、普通の人はそれを『生きる意味』だとは意識してないんだろうけどね」
「確かに、無意識なんでしょうね」
「でしょう? だからさ、やっぱり『普通の人』ってすごいんだよ。何も考えてないんじゃなくて、幸せで、無意識にそれをやっているから、生きる意味なんて考える必要がないんだよね」
うらやましいなあ、と彼女がつぶやく。その表情はどこか哀しげで、どこか悔しそうだった。生きる意味をさがし求めている彼女にとって、無意識にそれを知っている「普通の人」は、羨望の対象なのだろう。
だけど、ぼくにはいまいちピンとこない部分もあった。確かに、生きる意味を無意識に知っているのはすごいと思うけれど、だからと言って、うらやましいとまでは思わない。それはきっと、ぼくに「自分にも生きる意味がある」という実感がまだないからだろう。ぼくは、生きているから生きている。ただ、それだけ。
でも、それじゃあダメなんだ。だって、これでは彼女の気持ちをまるで理解できていない。ぼくは、彼女の気持ちを理解するためにここにいるのだ。だから、
「……でも、それは気付いていない人もいるというだけで、誰にでも生きる意味はある、ということですよね?」
そう、今は実感がわかないけれど、きっとそうなのだ。そして、それは人間にとってすごく大切なものでもある。だから、それが見つからない彼女は死のうと考えたし――それが見つからなかった『彼女』は、死んでしまった。
けれど、その悲劇をくり返してはならない。ぼくは今度こそ彼女を助ける。
「だって、みんな同じ一人の人間じゃないですか。きっと、あなたにも、ぼくにも、生きる意味はありますよ。だから、あきらめずに一緒にさがしましょう」
すると、彼女は大きく見開いていた目を泳がせたかと思うと、ちらり、と遠慮気味に視線を合わせてきた。そのほおは何故かほんのりと赤く染まっている。そして、彼女はじっとこちらを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「先生、あのね」
「はい、何でしょう」
「あの、あのね」
「?」
いつもはつらつとしていて、出逢ったときから口ごもったことのない彼女だが、そう言いよどんで一度うつむいてから、ばっと勢いよく頭を上げた。その目には、何か決意のようなものが宿っているように思える。
「先生は、わたしと一緒に生きる意味をさがしてくれるって言ったよね」
「ええ、もちろんですよ」
「わたしね、今、それが生きる意味になってるのかも」
「え?」
「先生と話してるとすごく楽しいし、落ち着くの。だから、最近はリスカも全然してないんだよ。生きる意味は見つかってないけど、先生と見つけるって決めたんだもん」
彼女が確実に成長しているということがその言葉からひしひしと伝わってくると同時に、ぼくもそこに関わっている、これからも関わっていけるということに、誇りのようなものを感じた。ぼくはまだまだ未熟で、彼女のほうが色々と理解しているくらいだけれど、彼女を絶対に救いたいという気持ちだけは変わっていないのだから。
「だから、もしかしたらわたしの生きる意味って、先生なのかなって思って」
「え」
「先生、わたしの『生きる意味』になってくれる?」
あまりにも予想外な彼女の言葉に、思わず息が詰まる。それは、どういう意味なのだろうか。生きる意味とは、そうやって乞われてなるものなのだろうか。そもそも、なれるものなのだろうか。
確かに、彼女は人が生きる意味になることがあると言ったけれど、まさかその矛先が自分に向けられるとは思っていなかった。――いや、本当は思いたくなかっただけなのかもしれない。だって、ぼくには生きる意味がわからないのだから。そんな自分が「生きる意味」になどなれるのだろうか。自慢じゃないけれど、そんな自信はこれっぽっちもない。
でも、ここでぼくが断ってしまったら、彼女は死んでしまうかもしれない。それは、彼女がさがし求めていた「生きる意味」という希望を、奪ってしまうことになる。だから、
「……ええ、もちろん」
ぼくは、弱々しく微笑んでうなずくことしかできなかった。これが正しい選択なのかどうかはわからない。だけど、ぼくにはこれしか選択肢がなかった。
「えへへ、先生、大すき」
そう言って、目じりにわずかな涙を浮かべながらはにかんだ彼女を、ぼくは本当に救えるのだろうか。




