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エゴと未練の贖罪  作者: 久遠夏目
第二章 生きる意味は君と一緒に
11/44

01

「わたしには、絶対に生きていなければならない理由がわかりません」


 彼女は、真っ直ぐな瞳をこちらに向けて、静かにそう告げた。


「わたしたちは、何のために生きているのですか?」


 続けて紡がれた質問に、ぼくは答えることができなかった。

 そして、その日の夜、彼女は死んだ。


       * * *


「ねえ先生、わたしたちは何のために生きてるの?」


 ――パリン。

 するりと手から落ちたグラスが、乾いた音を立てて床で砕けた。


「ちょっと先生、大丈夫?」

「え、ええ……あ、触らないでくださいね。怪我をすると大変ですから」

「じゃあ、ほうきとちりとり持ってくるね。受付の人に聞けばわかる?」

「はい。すみません、お願いします」


 あのときと、同じだ。そう遠くない過去の中の『彼女』も、そう言っていた。

 白いこの部屋は、精神科医であるぼくの診察室で、先ほど出ていった制服姿の少女は、一ヶ月ほど前からここに通っている患者だった。彼女はいわゆる自殺志願者で、何でもリストカットしようとしていたところを母親に見つかり、ここに連れてこられたらしい。


「もう、さっきはビックリしたよ。まったく、先生はドジなんだから」

「はは……すみません」

「あ、認めちゃうんだ」


 ふふっ、とおかしそうに笑みを浮かべる彼女とはまだ数回しか会ったことがないけれど、とても明るくてやさしい良い子だった。それなのに、彼女はどうしてリストカットなんか――


「でね、さっきの話なんだけど」


 突然の話題転換に、ドキリ、と心臓が跳ねる。さっきの話、とは、やはり。


「わたしたちは何のために生きてるのかな? わたしたちの生きる意味って、何だろうね?」


 その質問の内容は、軽やかな声とは対照的にとても重いもので。目の前で無邪気に微笑む少女の表情は、あのときの『彼女』とは全然違うけれど、真剣な瞳はまったく同じだった。


「先生には、生きる意味ってある?」

「……わかりません」


 そう、よく考えてみれば、ぼくには生きる意味などなかったのだ。だから、あのときぼくは何も答えられなくて、だから、『彼女』は――


「先生にもわからないなら、わたしみたいなひよっこにわかるわけないよね」

「……すみません」

「えっ、謝らないでよ。別に先生は悪くないんだから。それにわたし、実は生きる意味なんてないんじゃないかって思ってるんだよね」

「え?」


 その言葉に驚いて、うなだれていた頭を上げる。ぼくと目が合うと、彼女はにっと笑った。


「だってわたし、つい最近まで生きる意味なんて考えたことなかったんだよ? だけど、わたしはここにいて、こうやって生きている。つまり、そんなものがなくても生きていけるってことでしょう?」

「それは、そうかもしれませんが……」

「でも、それに気付くと答えを求めずにはいられなくなっちゃうんだよね。人間は答えがないと不安になる生き物だからさ」


 流暢に言葉を紡ぎ、少し哀しげに眉を下げて微笑む彼女は、ぼくなんかよりもずっとしっかりしている。本当に、どうしてこんな子が自殺なんか――


「だからわたし、自殺するために手首を切ろうとしたんじゃないよ」

「え?」


 すっとんきょうな声を上げ、大きく目を見開いたぼくを見て、彼女はくすりと笑みをこぼした。


「先生、驚きすぎ」

「だ、だって……じゃあ、どうしてリストカットなんか……」

「生きる意味がなくても、わたしはここで生きているんだ、存在しているんだって実感したかったから、かな」


 ああ、彼女はなんて繊細で、なんて強い人間なのだろう。ぼくの助けなんて、彼女には必要なかったんだ。


「でもね」


 彼女はそこで言葉を切ると、先ほどまでの堂々とした態度とは打って変わり、急にソワソワし始めた。


「何ですか?」


 穏やかに尋ねると、彼女はピタ、と動きを止め、おずおずとこちらに視線をよこす。やがて、しばしの沈黙を経て、彼女がゆっくりと口を開いた。


「わたし、これから先生と生きる意味をさがしていけたらいいなって思ったの」

「!」

「だからね――って、え? 先生? ……何で、泣いてるの?」


 彼女の、真っ直ぐな瞳を思い出す。ぼくが救えなかった、ぼくが殺したも同然の、あの『彼女』を。

 ぼくも、さっきの彼女のように言えばよかったのかな。「ぼくにもまだわからないから、一緒にさがしていきましょう」と。そのときのぼくは、生きる意味なんて真剣に考えていなかったんだ。

 だけど、ぼくは今、ここで生きている。ならば、今度こそ目の前の患者を救ってみせる。


「泣いているのは、嬉しかったからです」

「え?」

「これから、一緒に生きる意味をさがしましょう」

「――はいっ」


 ああ、『彼女』が亡くなったあの日から、生きる意味を一番求めていたのは、ぼくだったのかもしれない。




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