01
あるエゴイストは言った。
「ぼくは、ぼくのために自殺を止める」
ある復讐者は言った。
「ぼくは、未練を残して死ぬ人間が大嫌いなんだ」
ある罪人は言った。
「ぼくは、裁かれるべき愚かな人間なんですよ」
誰かのエゴと、誰かの未練、そして誰かの罪が交錯するとき、
そこに、救いはあるのだろうか。
* * *
今日も一人、人が死んだ。ぼくたちが見ている前で彼女は嗤い、何の躊躇いもなく空へ飛んだ。
――否、地面へ墜ちた。どうして、そんな嗤いながら、
「大丈夫?」
はい、と差し出されたコーヒーを受け取り、そのまま口に含むと苦い味が広がった。まるで今のぼくの心境のようだ。
「大丈夫、なわけないよね。君は真面目だからなあ」
うんうん、と一人で納得したようにうなずく彼は、ぼくの相棒で、ぼくとは正反対の性格をしている。不真面目だと言いたいわけではないが、真面目だと評価することも確かにできないだろうと思う。
「どうして笑って死ねるんだ? ぼくには理解できない」
「今回の人は、よっぽど世界が嫌いだったんだろうね」
「でも、あの人が死んだところで、世界は何も変わらない」
「別に世界が変わる必要はないよ。自分がこの世界から逃げ出せればいいんだから。君も嫌なことからは逃げたくなるだろう?」
「それは、そうだが……」
この世界が嫌いだから死んで、それで逃げたことになるのだろうか。それで、救われるのだろうか。
ああ、彼女はこの世界が嫌いだから、逃げるために死んで、救われたんじゃないか。
――本当に?
「君は、どうして自殺する人間が遺書を残すのか、わかる?」
彼からの突然の質問に戸惑いながらも、ぼくはその答えを考える。
「残された人への想いを伝えるため、だろうか」
「うん、それもあるだろうね。でも、ぼくはそれもひっくるめて『未練』があるからだと思うんだ」
「未練?」
「そう」
にこ、と暗い話題にそぐわぬ明るい笑みを浮かべた彼は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「たとえば、飛び降りのときに靴を脱いで自殺する人がいるだろう? あれは『私はここから飛び降りました』っていう明確な証拠だよね。つまりさ、『私がここから飛び降りた』っていうことを、誰かに憶えていてほしいんだよ。これが『未練』さ。そしたら遺書なんて、もっとはっきりとした『未練』だと思わないかい?」
「でも、今回の人は靴も履いていたし、遺書もなかった」
「でも、彼女はぼくらの目の前で飛び降りた。そうすることで、君には『未練』が残っただろう? 『未練』は自殺する側だけのものじゃないんだよ」
そう言って、彼は自分のコーヒーを口に運んだ。
確かに、彼女がぼくらの目の前で飛び降りたことによって、ぼくには「助けられなかった」という「未練」が残った。後味が悪いというレベルではない。
「だいたい、自殺自体が『未練』そのものだと思わない?」
カコン、彼が投げたコーヒーの缶は壁に当たり、見事にゴミ箱の中に吸いこまれていく。
「自殺は大抵死体が見つかる。事後処理をする人がいないからね。見つかった遺体はいつか身元がわかり、家族に知らされる。そして、家族には『未練』が残る」
忌々しげな表情で吐き捨てた彼。それはつまり――
「本当に死にたいなら、誰にも迷惑がかからないように死ぬべきだと思わないかい?」
にこり、彼はキレイに笑ったが、そこには明確な嫌悪があった。
誰にも迷惑のかからない、「未練」の残らない自殺。確かにそれは「真の自殺」なのかもしれない。
だけど、果たしてそれは本当に可能だろうか? 仮に可能だとしても、哀しくはないだろうか? それは、その人の存在をもなかったものとして、否定してしまうのではないだろうか?
誰にも知られず、ひっそりと死んでゆく――そんなのは不可能だ。それなら、
「ぼくが『未練』を引き受ける」
ぼくがつぶやいた言葉に、彼は驚いたカオをしていたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「本当に君はお人好し――いや、『偽善者』とでも言うべきかな?」
「何とでも言えばいいさ。ぼくにはこれくらいしかできない」
人間は無力で、他人にしてあげられることなんてほとんどない。みんな自分のことで精一杯なんだ。
「――ああ、そうか」
「何?」
結局、ぼくも自分のことで精一杯なんだ。自分が死ぬときに独りなのは嫌だから、誰かに憶えていてほしいし、誰かに「未練」を伝えたい。自分が忘れられるのは嫌だから、ほかの人もそうだろうと、勝手に思っているんだ。だから、ぼくはやっぱり偽善者なんかじゃない。ただのエゴイストだ。
そう思ったら、胸のもやもやがすっと消えて、何だか自然と笑みがこぼれていた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「君が急に笑うなんて気持ち悪いね」
「失礼だな、君は」
カコン、ぼくの投げた缶もキレイな弧を描き、ゴミ箱に消えていった。
偽善だろうがエゴだろうが何でもいい。ぼくは、ぼくのために「未練」を引き受ける。